“PL戦士”は最後ではない――オリックス・中川の思い「もし指導者として…」

[ 2019年5月6日 18:00 ]

4月24日のソフトバンク戦の9回1死三塁、右翼線へ同点適時三塁打を放つオリックス・中川
Photo By スポニチ

 オリックスはヤフオクドームで手痛い3連敗を喫した。長丁場のプロ野球では切り替えも大事。忘れるのも手だ。

 さて、前回のヤフオクドームではドラフト7位・中川圭太内野手が鮮烈デビューを飾った。初のスタメン出場となった4月24日、ソフトバンクの守護神である森から同点に追いつく適時三塁打を放ち、チームの逆転勝ちを呼び込んだ。結果、西村監督に通算200勝をプレゼント。“最後のPL戦士”が本領発揮とスポニチでも大きく扱った。ファンにも大きな関心事だったと思うが、あの日、彼が発した言葉がずっと胸の奥に突っかかったままだった。

 「先輩でもプロを目指している方がいらっしゃるので、自分が最後だとは思っていません」。

 真っすぐに前を向き、彼が思いを明かしたのは「最後のPL戦士」と呼ばれることについてだ。実はこれまでにも何度か、この話をしている。PL学園出身の選手では、東京ガスの中山悠輝内野手やヤマハの前野幹博外野手は、中川より1つ上の世代ながらもプロを目指している。後日、改めて聞いてみると「そうなんです。自分がそう呼ばれる分には別に良いのですが、先輩に悪い気がして」と申し訳なさそうだった。“最後のPL戦士”は、我々マスコミが付けた愛称。こちらも申し訳なく思った。

 しかし、彼の本音はこれだけではない。胸に秘める大きな思い――。

 「正直、今は毎日のことで頭がいっぱいですが、将来のことを考えると、指導者というのは夢としてあります。自分たちの代で監督がいなくなって、甲子園に行けなかったというのもあって。もし指導者として甲子園に行けたら、素晴らしいことだろうな、と思ったりもするんです」。

 PL学園は、高校野球史に名を残した強豪校だったが、部内の不祥事に端を発した新入部員の募集停止などで、16年を最後に活動休止している。不祥事は中川が1年生の時に発覚。半年間の対外試合禁止処分がとけた後、野球経験のない校長が監督に就任したことで、主将になった中川が実質上の「選手兼任監督」となった。

 「秋季大会のときとか、本当に悩みました。投手の交代とか、どうしたらいいのか分からないことも多かった。今では良い経験をしたな、と思いますが、当時は本当に悩みました」。

 投手経験は小学生までという“中川監督”にすれば、投手の交代時期などは判断に迷うことが多かったという。実は中川の恩師でもある少年野球時代の監督が、松井稼頭央と同級生だったPL出身の田中和人さん。その恩師に「お前の力で、PLを復活させてくれ」と言われたことがきっかけで、進学を考えた。しかし、騒動で揺れた当時、中川の力だけではどうすることもできなかった。3年夏の大会も決勝で敗れ、甲子園をあと一歩のところで逃した。だからこそ余計に、PL学園への思いが強いのかもしれない。

 東洋大でも主将を務めた中川は、現在でも時間があるときは東都大学野球の速報をチェックするなど、母校愛のある選手。「自分としても、最後のPL戦士と呼ばれるのではなく、やっぱりオリックスの中川と呼んでほしいです」。これからは“復活を願うPL戦士”として、ファンに定着してほしいと思った。 (オリックス担当 鶴崎唯史)

続きを表示

2019年5月6日のニュース