阪神・能見、平成最後に悲しき別れ…2人の恩人の教え胸にマウンドへ

[ 2019年5月2日 09:30 ]

阪神・能見
Photo By スポニチ

 「仕方ないよな…」。神宮球場のグラウンドへと続く階段を降りながら、自分を納得させるような口調で話し始めた。4月18日の練習前。阪神・能見は、実は失意を隠して戦いの場へと向かっていたのだった。

 「闘病していたから。ずっと(体調も)悪かったし…。ある程度、覚悟はしていたんだ。でもなあ…」

 覚悟はしながらも、決して信じたくない訃報だった。17日のヤクルト戦は今季初の延長12回引き分け。能見も2番手として登板。疲れが残る体を無理にベッド沈めてから数時間後だった。闘病生活を送っていた実父の謙次さんが午前3時45分に逝去。68歳の若さだった。夜が明けると球団には他界した事実を伝えた。しかし、すぐに“職場”を離れることはしなかった。

 「(今日18日は)帰らないよ。20日に帰ろうと思う」

 チームメートには何も語らず18日のヤクルト戦も、翌日も1軍本隊に同行した。19日の巨人戦でも5番手として登板して1回をパーフェクト。敗れはしたものの、脅威の巨人打線を意地で抑えた。警察官として職務を勤め上げた、実直な人柄だった父のように役目を全う。そして20日にようやく事実を公表して帰省。通夜、告別式に参列するとすぐに故郷を離れ、22日には中継ぎでは唯一、投手の指名練習に参加していた。

 野球を始めたきっかけも父の影響だった。能見が生後4カ月のときに勤務先の神戸から出石町の駐在所に赴任。幼少期は日課は「壁当て」だった。駐在所の横にあった建設会社の窓ガラスを割ったこともあった。それでも怒られることはなかった。小学3年になると父が指導者として携わっていた地元の野球チーム「小坂プラッキーズ」に入部。39歳となった今でも抜群の制球力は健在だ。その原点こそが幼い頃の日課のたまものだった。

 「(不幸が)続くな…。(訃報を聞いたときは)ビックリした。すごくいい方だった」

 実は最愛の人を失ってから10日後の4月28日には恩師も旅立っていた。社会人野球の大阪ガスに入社した当時の監督・竹村誠さんが父と同じ病で57歳にして逝去。鳥取城北時代は「高校左腕三羽ガラス」の一人と評されてプロのスカウトも獲得に乗り出した。しかし、プロではなく社会人の道を進むことを選んだのは、竹村さんの熱意に押されたからだった。

 「最後まで面倒は見る。だから(大ガスに)来てくれと。そう実家まで来て頂いたことは今でも覚えている」

 平成最後の日には感慨深げな表情を見せた。30日のナイター後には車を飛ばして静かに眠る恩師に別れを告げに行っていた。もう、この世に2人の恩人はいない。大ベテランは感謝の思いと教えを胸に秘め、全力で左腕を振る。(山本 浩之)

続きを表示

2019年5月2日のニュース