内田雅也が行く 猛虎の地<20>広島「山金旅館」

[ 2018年12月23日 09:00 ]

初年度から本社介入の監督交代

広島商中庭に建つ優勝記念碑。甲子園大会は夏6、春1、そして国体2の計9度全国制覇。うち4度、石本秀一監督が率いた
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 初年度1936(昭和11)年、タイガースは早々に電鉄本社介入の強引な監督交代を行っている。5月24日、宝塚でライバル阪急に2―10と大敗すると、本社重役から監督・森茂雄解任の動議が持ち上がった。まだ公式戦7試合目だった。

 新監督として目をつけたのが石本秀一だった。大阪毎日新聞(大毎)広島支局の記者だった。

 母校・広島商の監督として24年夏に初の全国制覇。29、30年と夏連覇、31年春も制し史上初の夏春連覇を達成していた。中等野球の名将で、甲子園球場を持つ本社重役もむろん承知だった。

 この36年は野球指導からは退いていた。球団常務・田中義一が極秘に広島まで出向き、交渉にあたった。その場所が広島市鉄砲屋町にあった山金旅館である。

 今の中区袋町。アパレル店が並ぶ、おしゃれな街並みとなっている。当時は旅館が立ち並ぶ平田屋川(運河)周辺にあった。古い広告に「客室三十余」「特に団体宿泊に至便」とあり、修学旅行生もよく泊まった。石本が務める紙屋町の支局にほど近かった。

 阪神の就任要請に石本は「好きな野球に情熱を注ぎ込みたい」と二つ返事で受諾したそうだ。

 本社は森の上に総監督として石本を置く計画だった。だが前年、早大出の森を招く際に了解を得ていたOB会組織・稲門倶楽部が激怒した。佐伯達夫(後の日本高校野球連盟会長)は「メンツにかけて森を引き揚げさせる」と承服しなかった。

 当時の公式戦はトーナメント戦で各地を転戦する形式で行われていた。7月11日、第2回大阪大会(甲子園)1回戦、セネタースに1―8と大敗。13日の役員会で森が退団となっても石本体制で行くと決めた。同夜、田中は山金旅館で石本と3度目の会合を持ち、正式契約をすませた。

 この時、森以下チームは第3回名古屋大会(八事・山本球場)に臨んでいた。15日開幕で1回戦・巨人に競り勝ち、18日の準決勝でセネタースを振り切った。19日の決勝で阪急を11―7で下し、初優勝を果たした。

 試合後の宿舎。祝杯をあげる気でいた主将・松木謙治郎を田中が部屋に呼んだ。「松木君、えらい時に優勝してくれた。困ったことになった」

 森への解任通告は8月まで遅れた。石本が選手の前に現れたのは8月10日、合宿のため集合した明石駅前の旅館だった。練習では「千本ノック」で鍛え上げた。巨人が茂林寺で猛特訓を行っていたころである。沢村栄治打倒に投手にプレートの前から全力投球させて打撃練習を繰り返した。

 1年目の36年は年度優勝決定戦で巨人に敗れたが、37、38年と2年連続日本一に導き、第1期黄金時代を迎えた。

 景浦将に賞金を出すと言って本塁打を呼んだ。小心な選手には叱らなかった。人心掌握にたけていた。投手兼任の藤村富美男を打者一本に専任させ、戦後「ミスター・タイガース」に育った。

 39年、3連覇を逃すと身を退いた。在任3年半で、猛虎の基礎はできていた。=敬称略=(スポニチ編集委員)

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