内田雅也が行く 猛虎の地<5> 高知県安芸市「東陽館」

[ 2018年12月6日 10:30 ]

「少年隊」に希望見た老舗旅館

かつて阪神のキャンプ宿舎だった東陽館
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 キャンプ最後の休日の朝、和田豊は高知県安芸市の2軍宿舎「東陽館」の女将(おかみ)歌橋正子から「今日はいいことがあるかもしれないわよ」と告げられていた。1988(昭和63)年2月24日、2階の雑居部屋にいると、昼前に「監督がお呼びですよ」と声がした。

 村山実がソファに座っていた。コーヒーをいれる間、歌橋が聞いた会話が著書『トラの母』(扶桑社)にある。村山は「そろそろタマイに行くか」と言った。「え?」「1軍や」「いつからですか」「今からや」

 和田は急いで荷物をまとめ、300メートルほどの距離にある1軍宿舎ホテル・タマイに引っ越した。

 当時の阪神は新旧交代の過渡期にあった。85年日本一から87年は球団最低勝率の最下位と天国の後の地獄。87年オフ、2度目の監督に就いた村山は若手登用を進めた。

 和田は日大から入団4年目、25歳で「正念場と思っていた」が1月の1軍マウイ合同自主トレのメンバーに名前がなかった。「年下の選手がマウイ組にいた。危機感が募った」。アピールしようとスイッチヒッターにも挑戦した。「何で外れたんだろう、と考えだすとつらい。邪念を振り払おう、闇の中に一筋の光を見ようと練習した」

 安芸市営球場一塁側のマシン練習場。日が暮れて冷え込むなか、汗が落ち湯気がのぼる和田の姿を覚えている。東陽館へ帰るのも遅く「湯船はお湯が少なく、土や砂でジャリジャリして……」。夕食後は中庭に張ったネットに打ち込んだ。

 キャンプ中、15日には新人の野田浩司、高井一がタマイに引っ越していった。最終盤、ようやくの1軍昇格だった。

 この時、村山は幹部候補としての期待を告げていた。「ええか、和田。阪神の将来はおまえの肩にかかっとる。これからの阪神を背負って立つんやぞ」。村山は後に大野久、中野佐資と3人をレギュラーに抜てきし「少年隊」と命名する。その中心が和田だった。

 「いま思えば」と現役1739安打、監督も務め、テクニカルアドバイザー(TA)となった和田は言う。「監督が2軍宿舎まで来て直々に昇格を告げる。すごいことだよ」。没後20年になる村山に感謝の思いが募る。

 東陽館は阪神がキャンプ地を安芸に決めた64年秋、最初の宿舎に選ばれた。村山も青春時代に過ごした思い出深い老舗旅館。低迷期にあって2軍宿舎の「少年隊」に希望を見ていたのだろう。

 1軍キャンプ地が沖縄・宜野座に移り、東陽館は閉館となって久しい。和田は言う。「裏手の海岸、家庭的な料理、雑魚寝もすきま風も古き良き時代の思い出として残っている」。猛虎の心の古里である。=敬称略=(編集委員)

 ○…歌橋正子さんは東陽館の長女。戦後47年4月に上京、銀座のカフェに勤め、歌橋淑朗さんと出会い結婚した。夫は「寅年寅の月寅の刻生まれ」の阪神ファン。75年に他界し「東京に阪神ファンの店があれば」という夢をかねるため東中野に酒処「とら」を開いた。キャンプ中は実家の東陽館で働き、シーズン中は店のママ。ファンと家族のように付き合い、「トラの母」として慕われた。2010年11月13日、老衰のため他界した。

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