PL学園 名将のヒラメキと“春男”が導いた史上2校目春連覇

[ 2018年3月7日 10:30 ]

82年、史上2校目のセンバツ連覇を果たし「V2」の人文字の前を行進するPL学園ナイン
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 【センバツ群像今ありて〜第1章〜(7)】選抜大会で2連覇を達成したのは1929、30年の第一神港商(兵庫)と81、82年のPL学園(大阪)の2校だけ。PL学園の佐藤公宏は81年の第53回大会決勝・印旛(千葉、現印旛明誠)戦の9回に逆転劇の口火を切る同点三塁打を放つと、翌年の第54回大会決勝・二松学舎大付(東京)戦では決勝戦史上初となる先頭打者本塁打で偉業に貢献した。監督だった中村順司(現名商大総監督)と、2人が当時を振り返った。(吉仲 博幸)

 大阪桐蔭と履正社による史上初の大阪決戦となった昨年の選抜大会決勝。初回表に大阪桐蔭の1番・藤原恭大が放った決勝戦2本目となる先頭打者アーチで、にわかにクローズアップされたのが「PL学園・佐藤公宏」だった。53歳となった佐藤は現在、千葉県富津市内で不動産業を営む。

 「昨年の春は周囲から“おまえの名前が新聞やテレビに出ているぞ”とよく連絡がきましてね。藤原選手がホームランを打ってくれて、自分のことを思い出してもらえたことがうれしかったですね」

 36年前に成し遂げた春連覇。その後ものべ9校が挑戦したが達成できなかった。82年決勝・二松学舎大付戦。「1番・遊撃」で先発した佐藤は試合開始を告げるサイレンが鳴りやまないうちに相手先発・市原勝人の初球ストレートを強振し左中間のラッキーゾーンへ放り込んだ。

 「グラウンドはまだ荒れていない状態でしたから、塁間に自分の足跡をつけるのが気持ちよかったですね」

 先制パンチに気を良くし5回に左前打で追加点のきっかけをつくると、7回には右前打で出塁しその後2四球。松田竜二の満塁ランニング本塁打につなげた。余談だが、決勝での満塁本塁打も連覇を達成した30年の第一神港商・高橋二郎以来という奇遇。当時の決勝戦史上最多15得点での大勝だった。

 連覇への道を切り開いたのも佐藤だった。2年生で出場した81年センバツの決勝・印旛戦は終盤まで重苦しい空気に包まれ0―1で9回裏を迎えた。1死から6番・東信明が左前打すると監督の中村順司は動いた。次打者席では3年生の谷英起が代打の準備をしていたが“目が合った”背番号15の佐藤を代打に送った。守備固めと代走要員としてベンチ入りし、ここまで一度も打席に立たず。「力が同じなら上級生を使う」のが中村の哲学だが、この時ばかりは違った。

 「あの時、ネクストに谷を入れていたんだけど、東にヒットが出たことで岩井(忠彦)の代打に公宏を送ったんです。決勝戦前の打撃練習は50分間あるんだけど、残り5分の時にスタメン以外の選手を打たせました。そしたら、公宏が左中間へいい打球を飛ばしていましてね。あの場面、公宏も僕の目を見ていた。思いが一致したんでしょう。ひらめきでした」

 指揮官の勝負勘は的中する。フルカウントから印旛のエース佐藤文男(元阪神)の外角低め直球に食らいついた打球は、試合前の打撃練習と同じように低い弾道で左中間を破る同点の三塁打。次打者・西川佳明(元ダイエー)の打球が前進守備だった一、二塁間を破るとサヨナラのホームを踏んだ。

 中村にとっても80年秋の監督就任から初めて臨んだ甲子園で忘れられない優勝。春夏3度ずつ優勝を果たすなど甲子園通算58勝を誇る名将へのスタートでもあった。桑田真澄、清原和博(ともに元巨人)ら数多くの教え子をプロ球界に輩出したが、佐藤も印象深い教え子の一人。「走攻守そろった選手だったけど、特に守備がうまかったなあ」と歴代ショートでも屈指の存在とし、当時を懐かしんだ。

 「甲子園は水が合った」と話すように、佐藤は2度の出場で82年は全5試合で安打を放つなど通算19打数10安打の打率・526、1本塁打、4打点の成績を残した。

 早大に進学し4年生となった86年春。東京六大学野球の開幕戦、東大1回戦に「1番・遊撃」で出場した佐藤は、またしても“偉業”を成し遂げた。初回表の打席で初球を仕留めた一撃はきれいな弧を描き神宮球場の左翼席に吸い込まれた。アマチュア野球の2大聖地で初球先頭打者本塁打を放った、極めてまれな存在。佐藤は最後に笑いながら言った。「私、春に強いんです」――。=敬称略=

 ◆佐藤 公宏(さとう・きみひろ)1964年(昭39)4月14日生まれ、大阪市平野区出身の53歳。PL学園では81年春、82年春に甲子園出場。早大では4年春秋にベストナインを受賞し大学日本代表入り。87年に日本生命に入社。5年間プレーし90年の日本選手権優勝にも貢献した。

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