忘れられない闘将の豪快な食欲と逆境に立ち向かう強さ

[ 2018年1月16日 09:30 ]

2011年4月、東日本大震災の避難所となっている仙台市・六郷中を訪れ、被災者と握手する楽天時代の星野監督
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 あの食欲、あの怒鳴り声がフラッシュバックした。星野仙一氏が膵臓(すいぞう)がんで亡くなったと聞いた時、思い出したのは目の前で豪快に食べている姿だった。

 「監督、もの凄い食欲ですね」。

 「おまえが食べんからや!」。そう怒られたのは、楽天監督就任1年目の7年前。福岡遠征中に、ちゃんこ店で夕食をごちそうしてもらった。ちゃんこはもちろん、目の前には大皿に盛られた和牛のローストビーフ。芋焼酎を飲みながら、田淵ヘッド兼打撃コーチの話を聞いていると、星野監督が箸でローストビーフをすくうようにつかみ、皿の半分近くをたいらげた。昔、巨人の長嶋監督がふぐ刺しを一気にたいらげた逸話を例えに出すと「うるさいわ、早く食わんか!」。皿にローストビーフは残っていなかった。当時64歳で、この食欲。驚いた。ポケットには何十枚もの万札。店員にポーンと渡した。昭和の大スターに見えた。

 「星野番」として、闘将に触れたのは1年にも満たないが濃密な時間だった。久米島春季キャンプ初日に練習後、球場から一人で歩いて帰ると迷子になった。孫のような子供たちに連れられて宿舎へ。「お茶会」での話題は「迷子の仙さん」だった。飲んだホットコーヒーは1日4、5杯か。遠征先の神戸で散歩した後、一緒に食べたそばの味。仙台でごちそうしてもらった高級な焼き肉の味。どれも忘れられない。その後も、たまに顔を出すと、「急に天気が悪くなったと思ったら、おまえが来たからだ」。きつい言葉を浴びせつつ、顔はいつも笑顔だった。記者をいじって遊ぶのが好きだった。こちらも気にかけてくれていると思うと、うれしかった。

 11年は東日本大震災が起きた年。被災地球団としての使命を背負うことになった。記者が「大変なことになった」と話していると、星野監督は「何言うとんのや、おまえは。これも俺の運命ないか」と言った。逆境からの船出を力に変えていた。8年ぶりの現場復帰で喜ぶ友人の話も聞かされた。「みんな、俺のユニホーム姿が生きがいって言ってくれるんや。友達は大事やぞ。だから頑張らんとな」。そう話した後、「俺の自慢は友達の多さだけや」と、うれしそうに言っていた。情にあふれ、決して人前で弱みを見せない男。だから人が集まる。2年後に自身初の日本一。そして、震災で傷ついた東北に歓喜をもたらした。

 昨年10月26日。ドラフト会議の会場であいさつしたのが、最後だった。体調は悪そうだったが、声を絞り出すように「まだスポニチにいたんか、とっくにやめたと思っていたぞ!」。数年ぶりに顔を見せても、きつい言葉を浴びせられた。懐かしくて、とても心地よかった。最後に、あいさつできてよかった。(野球コラム・飯塚 荒太)

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2018年1月16日のニュース