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出征前、わずか1カ月のプロ野球生活――戦火に散った「ガンジー」

田中雅治さん。明大時代、和歌山市の自宅前で撮影したと思われる=遺族提供=
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 【内田雅也の広角追球】日中戦争や太平洋戦争などで戦死した野球選手の霊を慰める墓標は2種類ある。プロ選手への「鎮魂の碑」は1981年に建立された。中等・大学・社会人のアマチュア選手に対しては「戦没野球人モニュメント」が2005年に設置された。いずれも東京ドーム敷地内にあり、野球殿堂博物館が管理している。

 現在、「碑」には73人、「モニュメント」には167人の名前が刻まれている。戦後72年のいまも殿堂では情報収集を進めている。戦死者の数はまだ増えそうだ。

 近年で言えば、2015年2月28日に「モニュメント」から「碑」に5人を移す作業が行われた。戦前、職業野球と呼ばれていたプロでの在籍が確認されたからだ。

 たとえば、繁原(旧姓・矢島)粂安(松本商―早大)はプロ野球の日本野球連盟(NPBL=今のNPB)発足前に退団していたが、大日本東京野球倶楽部(現巨人)創設時のメンバーで1935年の米国遠征にも参加していた。渡辺敏夫(甲陽中―法大)は阪急軍で1936年に1試合だけ出場していた。

 なかに、田中雅治(まさはる)がいた。前回の当欄で書いた「伝説の左腕」嶋清一の和歌山・海草中(現向陽)での2学年後輩にあたる。

 1943(昭和18)年に当時の朝日軍(後の松竹=消滅)でプレーしたことが確認された。

 田中が歩んだ足跡をたどると、戦時、野球に青春をかけた心情、生への渇望が浮き彫りとなる。

 田中は1939、40年と全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会)を連覇した海草中の二塁手だった。39年は嶋が全5試合完封の偉業で初優勝。40年は真田重蔵(後に阪神など)の後を受け、投手としても登板、連覇に貢献した。

 3連覇に挑むはずの41年は主将だった。和歌山大会前の7月12日、主催の朝日新聞から中止が発表された。文部省が戦時に備えた輸送力確保を理由に全国的な運動競技大会の禁止を通達してきたのだった。大会前合宿中に聞かされ、全員が涙にくれた。この年の12月8日、太平洋戦争に突入するのである。

 田中は嶋の後を追って42年、明大に進み、捕手となった。嶋が「ガンジーに受けてもらいたい」と要望したからだ。

 「ガンジー」は名前の音読みから呼ばれた愛称だ。非暴力・不服従の「インド独立の父」マハトマ・ガンジーのように、優しく強い心を持つ青年だった。

 当時、明治中野球部にいた別府隆彦(後の明大監督・総監督)は嶋や田中が「よく練習を手伝ってくれた」と記憶している。山本暢俊の『嶋清一――戦火に散った伝説の左腕』(彩流社)にある。「嶋さんは田中さんをガンジーガンジーって言ってね。田中さんを座らせてバッティング投手をやってくれました。あんな時期でしたが、やっぱり野球が好きだったんでしょうね」

 43年3月には文部省が「戦時学徒体育訓練実施要項」を発表。野球は適切な球技から除外された。4月、東京六大学野球も中止にいたった。

 明大では繰り上げ卒業となる上級生を送る紅白戦が9月末にあった。海草中出身の嶋、古角(こすみ)俊郎、竹尻太次、宮崎繁一、田中の5人で記念写真を撮って別れた。嶋や古角は故郷の和歌山に帰った。嶋は交際中の女性との結婚を控えていた。下級生は繰り上げ卒業ではなく、休学届を出すことになった。

 学徒出陣で12月には入隊しなくてはならない。田中は帰郷しなかった。東京から大阪まで帰り、朝日軍の一員となった。海草中の後輩、真田が在籍していた関係もあったろう。出征までのわずかな期間も野球をしたかったのだ。学生野球は中止となったが、プロ野球は入隊で選手不足のなか、活動を続けていた。

 日本野球連盟関西支局長・小島善平の日記に「10月1日(金)晴 朝日、登録未発表の田中出る。鈴木が許可したから出したとの事」とある。鈴木とは当時の連盟理事長、元朝日軍球団代表である。急きょの入団、選手登録だったようだ。背番号2。南海戦(西宮)で初出場を果たした。

 最後の公式戦出場は11月3日の巨人戦(西宮)。プロ野球で過ごしたのはわずか1カ月あまりだった。

 出場16試合。主に右翼を守り、捕手でも1試合記録が残る。主に7番打者で先発に名を連ねている。48打数10安打、打率2割8厘だった。12月1日、陸軍に入隊した。

 先の『嶋清一』の著者、山本は「誰もが死を覚悟しながら懸命に生きていた。嶋さんは11月に結婚式をあげ、新婚生活を送った。田中さんは命ある限り、最後まで野球をやりたかったのでしょう」と話した。航空隊員で出撃前に終戦となった青田昇(巨人)が野球に没頭した心情を語っている。「せめてそれ(入隊)までは好きなことをやっていたい。どうせ軍隊に行けば死ぬんだ」=文藝春秋デラックス『人物・日本プロ野球』=。

 44年のプロ野球に記録はない。恐らく戦地に赴いていたのだろう。夏季リーグを最後にプロ野球も休止となった。

 ただ、終戦を迎えることになる45年、元日から甲子園球場と西宮球場で阪神、阪急軍、朝日軍、産業軍が自主的に行った関西正月大会(非公式戦)に出場している。大会全9試合を観戦、記録していた学生・伊藤利清のスコアブックに記載がある。一時復員していたのだろう。大会最終日の1月5日は「プロ野球が死んだ日」と呼ばれる。

 田中の甥(おい)、田中徹(千葉県香取市)は一昨年「鎮魂の碑」に名前が移されると知った時「まさか、本当にプロ野球選手になっていたのですか」と驚いていた。遺族も誰も知らなかった事実だった。甥はちょうど田中雅治の人生を調べている最中だった。

 「叔父の妹が2013年に亡くなり、一緒に過ごしたことがあるのは私だけとなりました。元気なうちに長男に情報を残すべく、がんばります」

 記憶を次の世代に伝える、残す、つなぐ。大切なことである。人びとは代々引き継ぎながら生きてきたのだ。

 厚生労働省に軍歴を問い合わせたが、満足いく回答は得られなかった。昨年2月、丁寧に調査書のコピーを郵送してくれた。そんな甥も今年3月20日、息を引き取った。77歳だった。

 戦死の状況も詳細は分からないままだ。田中家の仏壇に残る戦死公報を基にした資料によると、戦没年月日は「昭和19年8月19日、午前4時30分ごろ」とある。先に書いたように、昭和20年の正月大会に出場しているはずで、どうも食い違っている。

 戦没場所は「バシー海峡」。台湾とフィリピンの間にあり「輸送船の墓場」と称された。10万人を超える日本兵が犠牲になったと言われる。「輸送船で南方に航行中、米潜水艦からの魚雷を受け撃沈」とあった。

 1922(大正11)年9月18日生まれと分かった。いずれにしろ21歳か22歳の若さで不帰の人となったのだ。

 広島、長崎の原爆の日に続き、12日には日航機墜落事故で犠牲となった520人の三十三回忌が営まれた。盆休みに帰省し、先祖の霊を慰めた人も多いだろう。15日には72回目の終戦の日を迎える。日本の夏は、8月は命の重みをかみしめる季節である。

 ならば、ガンジーの思いに触れたい。明日をも知れぬ戦争中、野球に生きた人生、命を燃やした人生である。=敬称略= (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 入社前から興味があった野球史の取材・調査を進めるうち、戦争で犠牲となった多くの野球人を知った。戦争と野球というテーマはライフワークと言える。1963年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大。85年4月入社。

[ 2017年8月15日 10:45 ]

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