名将・上田利治氏死去 阪急で黄金時代、伝説の1時間19分猛抗議

[ 2017年7月2日 05:30 ]

84年、球団通算3000勝とリーグ優勝を決め、ナインに胴上げされる上田監督
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 阪急(現オリックス)の指揮を執り、1975年から日本シリーズ3連覇を果たした上田利治(うえだ・としはる)氏が死去したことが2日、分かった。80歳。徳島県出身。現役時代は広島でプレー。74年に阪急の監督に就任して黄金時代を築いた。95年から5年間、日本ハムの監督を務め、監督通算20年で1322勝は通算勝利数歴代7位。03年に野球殿堂入りを果たした。

 熱血の闘将だった。上田氏は選手としては無名に近かったが、指導者として才能を発揮した希有(けう)な野球人だった。燃えるような気持ちをオブラートに包もうとせず、グラウンドに立ち続けた。1970年代に阪急の黄金時代を築き、プロ野球人気を盛り上げた。

 関西大時代、捕手として元阪神の故村山実氏とバッテリーを組んで黄金時代を築いた。1959年に広島入団。目立った実績はなく3年間で引退したが、指導者として輝きを放った。62年から広島、阪急のコーチを歴任し、74年に阪急監督に就任。優れた統率力で阪急を常勝チームに変え、75年から3年連続で日本一に導いた。「俺の力ではない。選手に恵まれた。山田、山口、福本、長池…」と選手への感謝を常に口にする。「ええで、ええで」と選手を褒めることで有名だった。

 78年、ヤクルトを相手にした日本シリーズは3勝3敗で第7戦を迎えた。この時、ヤクルトの大杉勝男が左翼ポール際に放った大飛球が本塁打と判定され、烈火のごとく怒った。1時間19分の猛抗議。結局判定は覆らず、4連覇を逃した責任を取って辞任した。それから30年以上も「あれは絶対にファウル。それが認められるまでは死ねない」が口癖だった。前年までの日本シリーズで2年続けて敗れた巨人の長嶋茂雄監督(現終身名誉監督)は「日本選手権での猛抗議、“いいかげんにしろ”というくらいの闘志は忘れません」と振り返る。上田氏は81年に復帰して阪急、オリックスで10年間指揮を執った。90年に勇退したが、95年に今度は日本ハムの監督に就任する。優勝には導けなかったものの「ビッグバン打線」を形成し、旋風を巻き起こした。

 監督通算20年。試合後は負けたときでもインタビューに潔く応じた。「勝ったときは選手に聞いてくれ。その代わり負けたときは俺が何でも話す。選手はそっとしておいてくれや」とどんなにつらい敗戦でも堂々と受け答えした。ベンチには温かな上田節が響いた。監督通算成績は1322勝1136敗116分け。最下位の経験は一度もなく、リーグ優勝が5度、日本一は3度。2003年には野球殿堂入りを果たした。「小さな白球が大きな感動を呼ぶ。その野球ができたことが最高の宝物です」。野球を心の底から愛し、野球に愛され続けた名将だった。

 ◆上田 利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日、徳島県生まれ。徳島海南から捕手。関大では村山実(元阪神)とバッテリーを組み56年の大学選手権優勝。59年に広島入り。現役3年間で通算121試合で打率.218。62年から広島、阪急のコーチを務めた。74〜78年、81〜88年阪急監督、89、90年オリックス監督、95〜99年日本ハム監督。75年から3年連続日本一。78、84年リーグ優勝。監督通算20年で1322勝は通算勝利数歴代7位。03年野球殿堂入り。

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