「阪急阪神」とタイガース(上)

[ 2017年7月2日 09:00 ]

阪神のプロ野球草創期からの貢献を評価していた根来泰周コミッショナー
Photo By スポニチ

 【内田雅也の広角追球】タイガース初代主将、後に監督も務めた松木謙治郎は阪急との定期戦を<監督、選手にとって寿命のちぢこまる思いをする>と記した。著書『タイガースの生いたち』(恒文社)で、球団創設初年度1936(昭和11)年10月、第2回阪神・阪急定期戦を迎える心境である。

 9月の第1回定期戦を1勝2敗で落としており<もし、この第2回定期戦にまた敗れることになれば、本社の面目上、球団を解散する雲行きさえ感じたからである>。

 親会社、阪神電気鉄道と阪急電鉄は同じ大阪―神戸間に電車を走らせるライバル同士である。

 乗客の奪い合いは激しく、阪急電鉄に長く勤めた橋本雅夫の『阪急電車青春物語』(草思社)には<あれは競争ではなく戦争であったのかもしれぬ>とある。阪神が梅田を出た電車が淀川鉄橋を渡る際、車内で乗車記念品としてハンカチを配ると、阪急はタオルを配った。<1区の運賃10銭(中略)、高いタオルやハンカチを配って採算が合ったとは思えないが、こうなると意地の張り合いの泥仕合だった>。

 第2回定期戦はタイガースが2勝1敗で優勝を果たし、当夜、甲子園にほど近い西宮・鳴尾の旅館「みやこ」で球団主催のすき焼き祝勝会が開かれ<創立以来初めて酒が出された>。当時、宴席で役員は飲んだが、選手たちは禁酒されていた。<いかに球団役員がこの定期戦の勝利を喜んだか、これをみてもはっきり感じられる>。

 定期戦は「BK杯」と呼ばれた。タイガース初代球団会長、松方正雄は関西財界の重鎮で日本放送協会関西支部(JOBK=現NHK大阪放送局)理事長も務めていた。松方の縁で勝者には優勝カップが贈られていた。

 戦後も通称は残り、定期戦はオープン戦終盤の名物だった。阪急最後の監督・上田利治は阪神戦になると「スポーツ紙の1面を譲るな」と選手たちの対抗心を駆り立てた。定期戦は阪急がオリックスに身売りして長い歴史に幕を閉じた。1988年が最後だった。

 オリックス球団はさらに2004年12月に近鉄球団を合併した。オリックス・バファローズ初年度の2005年3月、阪神は甲子園でのオープン戦で対戦した。定期戦の昔を思った。すでに阪急も近鉄もなく、流れをくむオリックスと試合をしている。時の流れを思い、大阪紙面のコラムで「かつて切磋琢磨(せっさたくま)した阪神・阪急の匂いをかぐことはできなかった」と書いた。

 当時オリックス球団社長・小泉隆司が「そんな見方もありますか」と感想を寄せてきた。「これからはウチと阪神さんで関西のプロ野球を盛り上げないといけません。また切磋琢磨ですよ」

 小泉は統合球団の船出に心を砕いていた。選手感情に配慮し、近鉄でも監督を務めた仰木彬を再び監督に迎えた。

 「なかなか難しい。人間ですからね」と漏らした話を覚えている。「企業の合併など、私もいろいろ勉強しました。一般に合併した社員同士が本当の意味で心が通い合うには30年かかるそうです。選手が多く入れ替わる野球チームの場合はまた違うかもしれませんが、簡単にはいきません」

 いま、この言葉を思い返している。

 通称・村上ファンドによる株の買い占めにあった2005―06年、阪神電鉄はいわゆるホワイトナイトを阪急電鉄を母体とする阪急ホールディングス(HD)に求め、100%子会社として傘下に入る経営統合となった。商号変更で阪急阪神HDが発足したのが06年10月だった。

 タイガースについても球界内で論議が巻き起こった。06年7月のオーナー会議で「阪急HDが事実上、球団経営に携わることになる」との見解から、新規参入とみなされ、野球協約上の預かり保証金25億円、野球振興協力金4億円、手数料1億円の計30億円の支払いを求められた。阪急の球団(ブレーブス)売却の過去や阪神のプロ野球草創期からの貢献など賛否が分かれていた。

 阪神はオーナー・宮崎恒彰が「球団運営は変わらず阪神電鉄が行う」との説明で他球団を行脚して理解を求めた。コミッショナー・根来泰周の助言もあって阪急から誓約書を取った。

 オーナー会議に提出した誓約書は今も日本野球機構(NPB)に保管されている。内容は「第三者に売却することなく、将来的にタイガースを保有する」「プロ野球の発展、振興に貢献するよう努力する」であり、これで預かり保証金と野球振興協力金29億円の支払いを免れ、手数料1億円のみの納入ですんだ。主体者は「阪急阪神ホールディングス」とあった。

 あれから10年が過ぎた。阪急―阪神は「心を通い合わせる30年」に向け、新たな動きが出始めていた。 =敬称略、つづく= (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 村上ファンド問題が起きた2005―06年は東京本社へ単身赴任中で機構・連盟担当。同郷の根来泰周コミッショナーらを取材していた。1963年2月、和歌山市生まれ。主に阪神を追う大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は11年目を迎えている。

続きを表示

2017年7月2日のニュース