今の巨人にクロマティみたいな選手がいたらなあ

[ 2017年6月4日 11:00 ]

写真展のオープニングイベントであいさつするクロマティ氏
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】セ・パ交流戦が始まったばかりの6月1日、東京・南麻布の東京都立中央図書館でウォーレン・クロマティ(以下クロウ)に会った。

 「ユー、ヒサシブリネ。ゲンキ?」

 今回は同図書館で開かれている「パシフィック・ピッチ 日米野球外交」写真展のオープニングセレモニーに招かれて来日。巨人軍史上最強の助っ人は握手を交わすと、私の耳に顔を近づけてきた。

 「ジャイアンツはいったいどうなってるんだ?」

 苦しい戦いを強いられている古巣。私はドラフト戦略の失敗が続いていることを説明し、「ユーのような選手がいないんだよ」と続けた。

 クロウは独特のクラウチングスタイルで快打を連発。エキスポズ(現ナショナルズ)からFAとなった1983年オフに巨人と契約し、1984年から7年間で171本塁打、通算打率・321をマークした。

 6年目の1989年には開幕から4割をキープ。6月下旬にいったん大台を割ったが、8月に入って再び4割台に戻した。最終的には・378に終わったが、シーズン96試合目となる8月20日まで4割台をキープし、史上初の4割打者の夢を持たせてくれた。

 陽気な性格で、スタンドに向かって両手を挙げてバンザイコールを促すムードメーカー。フーセンガムをプーッと膨らませて割っては笑いを誘っていた。

 悪ガキの一面もあった。負けが込んだある日のことだ。王貞治監督が横浜スタジアムでのナイター前、多摩川グラウンドに全員集合をかけた。

 クロウはランニング中にグラブを蹴るなど明らかにふてくされた態度。「真昼の特訓」が終わると私に毒づいた。

 「こんなジャパニーズ・スタイルの練習は信じられない」

 私は返した。

 「ノー。これはジャパニーズ・スタイルじゃない。ジャイアンツ・スタイルだ」

 するとクロウは大げさに肩をすくめて言った。

 「おお、そうか。ジャイアンツ・スタイルか。アメリカに帰ったら友達に話してやるよ。でも、誰も信じないだろうな」

 私は2人だけの雑談のつもりだった。グラブを蹴るなどの事実は記事にしたが、会話の部分は「忖度」した。

 ところが、壁に耳あり…。後ろで聞き耳を立てていた某紙の某記者が、会話の部分を全てクロウがしゃべったように書いて1面でいった。大見出しは「クロウ造反」である。

 ハマスタに行くと巨人の通訳が「ちょっと来てくれないか」という。ロッカーに入ると王さんとクロウが互いに厳しい表情で対峙(たいじ)していた。

 「説明してくれないか」

 王さんに求められ、多摩川でのやりとりを話した。首脳陣批判と取られたら厳罰が下る。正直にありのまま伝えたら、王さんは分かってくれた。おとがめなし。胸をなで下ろした。

 他にもいろいろあったなあ。

 1986年のヤクルト戦(神宮)では頭部に死球を受け、近くの慶応病院に入院。翌日は病院から球場に直行し、代打で尾花高夫(現巨人投手コーチ)からセンターへ決勝満塁弾を放った。

 1987年の中日戦(熊本藤崎台)では背中に死球を受けてマウンドに突進し、宮下昌己を右のストレートでKO。

 1990年の広島戦(東京ドーム)では金石昭人から敬遠のボールを右中間に運ぶサヨナラヒットを放った。

 記憶にも記録にも残る助っ人。今の巨人にいたらなあと思うファンも多いのでは…。

 ちなみにクロウがテープカットした写真展は米ワシントンDCに拠点を置くメリディアン・インターナショナル・センター主催で、米国大使館後援。野球を通した日米交流の歴史を振り返る写真や書籍が50点以上展示されている。7月30日まで。 (特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年、岡山市生まれ。野球記者歴36年。1980年代は主に巨人と西武を担当した。

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