“昭和最後の完全投手”今井氏「夢の話さ」 現在は娘と食堂を切り盛り

[ 2017年5月16日 10:45 ]

店前で笑顔の今井氏
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 投手にとって究極の夢、これ以上ない完璧なピッチングが完全試合。長いプロ野球の歴史でもパーフェクトゲームを達成したのは過去に15人しかいない。1978年(昭53)8月31日のロッテ戦(仙台)で史上14人目となるその偉業を成し遂げたのが元阪急の今井雄太郎氏(67)。パ・リーグ最後、そして昭和最後の完全試合投手は今、JR佐賀駅北口にある食堂「ゴットマザー イマイ」を切り盛りしている。(東山 貴実)

 実力だけで達成できるものではない。そこに幸運も必要なのがパーフェクトゲーム。故に最も実現が困難な記録だ。だからこそ、“昭和最後の完全投手”の称号にも、阪急のエースだった今井氏は「そんなの、たまたま。夢の話さ。確かにあの試合は調子が良かったけど、相手投手も村田兆治さんだったし、勝ち投手になれればいいぐらいの気持ちやった。だから終盤にきても意識はしてもプレッシャーはなかったなあ」と笑い飛ばした。

 78年8月31日のロッテ戦。それでも、自らがさばいた最後の27アウト目の記憶は今も鮮明だ。「サード寄りのボテボテのゴロさ。さすがに捕って一塁に投げる時はガチガチになった。なかなかボールが指から離れんし、一塁までが凄く長い距離に感じたさ」。投球数100、三振3、内野ゴロ18、内野飛球4、外野飛球2という内容だった。あれから39年…。「こうしてメディアが取り上げてくれるのも完全試合のおかげだね」と話した。

 今井氏と言えば、酒に関する逸話には事欠かない。「そりゃ新潟出身。お茶代わりに酒が出てくる場所柄だからね」。極度のあがり症で、期待されながらも入団から5年間でわずか2勝。転機となったのが完全試合を達成した78年のシーズン序盤。当時の梶本隆夫投手コーチに、登板前に「これ飲んでいけ」と大きめのコップ一杯のビールを手渡された話は有名だ。「ビール1杯ぐらい何でもないはずなんだけど、直後に運動するもんだから、カッーと酔いが回って結構きつい。おかげでマウンド上で余計なことを考える余裕がない。今までは“ここで打たれたら、また2軍に落とされる”とか、だいたいがマイナス思考だったんだけど」。その試合で勝利を挙げたのをきっかけに、一気にブレークした。「あの試合以降は毎試合飲んどるとか、一升飲んで放っとるばいとか、話がどんどん大きくなってね。確かに日本シリーズでも飲んだけど、せいぜい5、6試合ぐらいじゃないかな。完全試合の時も飲んでないよ」と明かした。

 現在はJR佐賀駅北口近くで、食堂「ゴットマザー イマイ」を営む。ボリューム満点のランチで、地元サラリーマンを中心ににぎわう人気店だ。佐賀県は恵美子夫人の故郷で、野球をいつ辞めても生活に困らないようにと夫人が今井氏の現役時代から第二の人生を準備。今井氏も将来は佐賀に住むつもりで一軒家を建てた。最初はブティック経営、次にスナック、JR佐賀駅南口で現在は長男・有樹さんが営む「串カツ イマイ」、そして07年に始めたのが「ゴットマザー」だ。店名は「家内のイメージ。感情豊かというか、好き嫌いがはっきりしてる女でね。だから、(05年8月に米国南東部を襲った大型ハリケーンの)カトリーナってのも候補だった(笑い)」。看板が出来上がってきたら、なぜか「ゴッド」に濁点がついていなくて「ゴット」だったのはご愛嬌(あいきょう)だ。

 その愛妻も13年11月に食道がんで他界(享年67)。今井氏も妻の死の直後の検診で大動脈瘤が見つかった。それまで恵美子夫人と長女・梨絵さんが「ゴットマザー」を切り盛りしてきたが、梨絵さんだけになったことで、今井氏も店を手伝うようになった。「1人じゃさすがに大変だと思ってね。手伝うっていっても、洗い物や片付け。料理は作れんけん。まあ、トンカツを揚げたり、ご飯をよそうぐらいはするけどね」。野球人から食堂のオヤジへ。「店に入ったら、オレがいるもんだから、びっくりするお客さんもいるさ。まあ、100円、1000円を稼ぐことがそんな簡単なもんじゃないと身に染みて分かったね」と言う。

 現在、年に2、3度は野球教室で講師を務め、2日前の14日には故郷の新潟県でプロ野球OBが指導する野球教室「100万人のこどもたちとキャッチボールを!」にも参加。「今、野球との関わりはそれぐらいかな。体調もあまりよくないし、運動は犬を連れての散歩。でも、現役時代にいっぱい練習したし、それでいいんだよ。それに野球はやるのは好きだけど、見るのは好きじゃない。42歳まで現役やったけど、できればずっと野球をやっていたかったさ」。そう話す今井氏の表情は永遠の野球少年のようだった。

 ◆今井 雄太郎(いまい・ゆうたろう)1949年(昭24)8月4日、新潟県長岡市生まれの67歳。中越高から新潟鉄道管理局(現JR東日本新潟支社)を経て、70年ドラフト2位で阪急に入団。91年にダイエーに移籍し、同年オフに引退。プロ21年間で通算429試合に登板し、130勝112敗10セーブ、防御率4・28。81年に最多勝、84年に最多勝、最優秀防御率の2冠。引退後は昨年までタレントとして福岡放送の人気番組「ナイトシャッフル」にレギュラー出演していた。1メートル77、80キロ。右投げ右打ち。

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