相手をたたえる姿勢――「美しい」日本野球の伝統

[ 2017年4月4日 10:30 ]

WBC初優勝のアメリカナインに拍手を送るプエルトリコナイン
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 【内田雅也の広角追球】先のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)決勝で敗れたプエルトリコ代表の選手たちがアメリカ代表をたたえる姿勢が話題となった。

 敗戦後、全選手、スタッフがベンチ前で円陣を組むように集まり、マウンド上で喜びを爆発させるアメリカ代表に向け、帽子を脱いで、かざすように掲げた。文字通り脱帽のポーズで、相手への敬意を示したのだった。

 WBC公式ツイッターに掲載された写真には「すべてにリスペクトを」と題名がつき、世界中のファンから賛美のつぶやきが届いている。「まさしく一流だ。こうでなくては」「プエルトリコ代表の真の一流の所作に大きな敬意を」「わが国(アメリカ)を誇りに思うが、プエルトリコこそ、最上級だ」……。

 日本代表も立派だった。準決勝でアメリカに敗れた際、口を真一文字に結んだ侍たちの姿があった。小久保裕紀監督は相手の力量をたたえ、選手を責めはしなかった。

 こうした相手の勝利をたたえる姿勢は本来、日本野球の伝統であった。

 1915(大正4)年、第1回全国中等学校優勝野球大会(今の夏の甲子園大会)決勝で延長13回の末、京都二中(現鳥羽高)に敗れた秋田中(現秋田高)の選手たちは「京都軍万歳!」と連呼し、観衆を感動させた。先に京都に帰った京都二中の関係者は秋田中が帰る夜行列車を京都駅で見送ったと記録にある。

 また、高校野球100年を記念した朝日新聞デジタルの特集『ビジュアル球史』のなかに、1939(昭和14)年、全5試合完封で優勝した海草中(現向陽高)投手、嶋清一のページがある。驚いたのは閉会式の模様である。主将でもある嶋が深紅の優勝旗を受け取るシーンで、整列する準優勝校、下関商の選手たちが拍手を送っているのだ。戦時色が濃くなっていた当時、軍隊調に直立不動かと思いきや、自然な所作で相手をたたえていたのである。

 野球に関する著作も多いノンフィクション作家で日本高校野球連盟(高野連)顧問でもある佐山和夫さんは日本野球の高い精神性を指して「日本の野球こそ、世界に真似てもらうべきだ」と主張している。アメリカで生まれたベースボールはビジネスとして広まったのだが、日本は学生から全国に広まっていった。

 その中心に東大の前身、一高があった。野球部は明治時代、最強を誇った。多くの卒業生が全国に散り、野球の技、そして心を伝えていった。その一人、名訳「野球」の生みの親、中馬庚が『一高野球部史』で舶来の競技を良化させたと記している。<野球の面目ここに一変して、精神を主とし、修養に資し、品性を研くの具となるなり>

 佐山さんは「残念なことに日本の野球の歴史に対する理解すら、野球をやっている人にもあまりない」と嘆く。元巨人、パイレーツ投手、桑田真澄さんとの対談『野球道』(ちくま新書)にある。「日本の野球は世界的に見てもすごく大事なものなんだから、その大事さを少なくとも野球人にはわかってほしい」

 著書『野球、この美しきもの。』(水曜社)では1998年夏の高校野球秋田大会決勝の光景を伝えている。金足農―秋田商の激闘は17―16で金足農が甲子園出場を勝ち取った。9回裏、1点リードで守る金足農の捕手が秋田商ベンチ前に上がった邪飛を追い、スライディングキャッチを試みた。<このときだった。秋田の夏が特別だったのはこのときだった>

 立ち上がった捕手が目の前の秋田商ベンチに向かって、スタンドにも聞こえる大声で叫んだ。「秋商、がんばれ。おまえらも意地を見せろ!」

 <もはや、敵も味方もないのだった。甲子園出場をかけた最後の修羅場で、両校は互いに溶け合っていた>

 3月末、秋田の公立高校の野球部関係者に会った。雪の残る秋田から大阪まで練習試合の遠征に来ていた。監督は敗れた大阪の私学に「勉強になりました」と感謝の念を忘れなかった。

 選抜高校野球に21世紀枠で出場した不来方(岩手)の大会前練習試合を見た。相手チームの好捕や疾走する姿に、ベンチで監督が立ち上がって拍手を送っていた。

 戦う相手を敬い、勝った相手をたたえる姿勢は今も生きている。厳しい勝負の世界であるプロ野球でも同じだ。侍たちは分かっている。「美しい」日本野球の伝統をトッププレーヤーたちこそ引き継いでほしいと願っている。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。小学校卒業文集『21世紀のぼくたち』で「野球の記者をしている」と書いた。桐蔭高(旧制和歌山中)時代は怪腕。慶大卒。85年入社から野球担当一筋。大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は11年目を迎えた。

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