センバツ花道に…報徳・永田監督に聞く勇退への思い 貫いた「全員野球」

[ 2017年3月7日 10:10 ]

ノックを打つ報徳学園・永田監督 
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 第89回選抜高校野球大会(甲子園)は3月19日に開幕する。今大会を最後に23年に及ぶ監督生活に終止符を打つ報徳学園・永田裕治監督(53)に甲子園の思い出やラスト采配への意気込みなどを聞いた。

 ―退任発表以降、気持ちの面での変化は?

 「今のところは変化はない。ただ、終わってしまったら寂しさが残るのかなという思いはあるが、今のところはハリのある生活をしている」

 ―今選抜が最後の指揮になる。特別な思いは?

 「(近畿の補欠1位校だった)昨年は十分に(甲子園出場を)狙えたチームだし、実際に行けると思っていたが、行けなかった。今回、この弱いチームが行ける。監督を受けた平成6年のチームは(夏の兵庫大会準々決勝敗退し)めちゃめちゃ弱かった。弱いチームからスタートして(最後また)弱いチームなんだけども、甲子園に行ける。自分の終わり方としては(最適)」

 ―改めて決断に至るまでの経緯を。

 「自分の人生の中では50歳もしくは55歳。その間で転機があるのかなと。自分の体が思うように動かなくなってしまえば転機もないので、その間に考えたいとは思っていた。僕が監督になった時はコーチもいないし、グラウンドも(他部と共用で今のように)整備されたものではなかった。特待制度もなく、すべてゼロからのスタート。今は教え子が3人(※1)いるしウエート場もできたし、グラウンドも整備された。進路の上でもそろってきた。システムもできスタッフもそろい、何もかも整ったと思ったので自分の報徳における仕事としては(終わり)」

 ―報徳学園では、やりきったということ?

 「頭の中では(18年夏の)100回大会までというのもあったが、ここにきて伸びてきている選手もいるし(新2年生となる)次の学年はタレント軍団。夏以降はかなり選手層も厚いチームになるだろうし比較的、渡しやすいと考えた。きれいすぎるくらいきれいな方がいいかなと。ましてや、教え子なんで、良い形でバトンタッチしてやりたかった。後継者として呼んで来たわけですから。いつまでもしがみついていても仕方ない。自分の道は自分で決めていかないといけない」

 ―23年の指導生活を振り返って。

 「始めた時は30歳で体も動いたし自分も一緒に走っていた。現場は自分一人だったので、ずっとグラウンドにいて、それ以外は大学を回ったりするなど生徒のために突っ走ってきた23年間だったと思う。(就任して)一番最初に着手したのが進路だった。特待制度がなかったので選手が来てくれない。(専用)グラウンドもない。そんな中で何を(生徒側は)一番求めるかと考えた時に進路。最後まで責任を持って面倒みることを大きなテーマにした。手当たり次第、大学などをかけずり回った。自分の顔を売って、それが生徒に反映し中学側にも信用を得られるようになった。それが一番、大きい。ここまできた要因の一つかなと」

 ―指導の根幹にあったものは?

 「全員野球。そこが根本。一番やりたかった部分だったし、高校野球は教育の一環だと思っている。どうしても私学の監督というのは勝利至上主義になる。自分の野球人生もかかってくるのでね。でも、僕は形だけの全員野球ではなく、全員に(同じ練習を)やらしたいなと。これが大きなバックボーンだった。(就任)当初はそんな甘いことで勝てるかと言われた。ただ、責任を取れるのは僕だけ。自分のやりたいようにやらしてくれと。あとは結果を残すだけ。ダメだったら辞めるしかないんでね。ただ、ものすごく多くの生徒がうちの門を叩いてくれた。(教え子の)数めっちゃおるんですよね。誰でも入れるから。練習の方法は(一人に割く練習時間が短くなるなど)難しいけど、それだけ仲間、同じ釜の飯を食った同士ができる。それだけ慕ってきてくれるというのがうれしかった」

 ―監督をやってきて一番うれしかったことは?

 「毎年1月3日に教え子が(300人ほど)グラウンドに集まる。これが一番うれしい。勝ち負け以前に。最近ではこどもを連れて来る教え子も多くなった。こどもにも“お父ちゃん、ここで(野球を)やってたんやで”といった話をする。卒業生の父兄も協力してくれる。普通、(父兄は)来ませんよね。卒業した後はね。本当によくやっていただけるので非常にうれしいですね」

 ―指導方法は変わった?

 「昔は俺についてこいっていう方式やったね。今は組織になってコーチもいるし、ミーティングを密にする形に変わった。(試合で使ってほしいという提案がコーチから)上がってきたら僕は使いますね。即使う。ダメなら下がっていくだけだし。ただ、一環して変わらないのは、チャンスはやるが(与える)数は違う。頑張ってるやつは数が多いと思う。その方向は全然変わらない。ただ、つかむのは自分しかできないんで(頑張った選手に)そのチャンスをつかんでほしいと思う。こちらも、そういった選手を(メンバーに)入れたいと思う。そうすれば、後輩の見本になる。こんな下手な人でも入っている。一目瞭然でわかるような形に持っていきたい。下手でもいいんです。こういうところが突出しているからメンバーに入っているんだということを説明するし、それでみんなが納得する。納得すれば応援もする。うちは最後の夏もメンバーを外れた選手にすれた選手がいないのがいいところ。スタンドから一生懸命応援している。それが、スタンドとベンチに入った選手が戦っている(本当の全員野球の)姿とちがうかな」

 ―監督として後悔したこともある?

 「それは常にある。でも、あまり振り返らずに、ずっと突っ走ってきたね。あかんかったことは補わないといけない。ただ、休むことなく、ずっと走ってきたように思う。ゼンマイ仕掛けのゼンマイがずっとONに入っているように、動き続けてきた」

 ―甲子園で印象に残る試合は?

 「強いて挙げるなら、一番最初の試合。北海戦やね(※2)。試合中は泣いちゃあかんと思っていたけど今にも泣きそうやった。(試合後は)涙が止まらんかった。震災が本当にすごかった中で(大会を)やったし、あの状況でよく試合をしているなというか、よう踏ん張っているなと。全然、練習が出来てない中でここまでやるかと。凄いと感じながらやっていた試合。自分もデビュー戦。監督じゃなくキャプテンやったなと。監督って冷静に(試合を)見て、これを狙っていけとか指示を出す。そうじゃなかった。それこそ、チームを一人で引っ張って円陣組んでも(普通は)指示出した後は離れてキャプテンが声出すんだけど、自分から肩組んで声出してというのが何回もあった。まだまだ若かったですけどね。すごく思い出深い試合。強烈な印象が残っている」

 ―一番、しんどかったのは1995年の阪神・淡路大震災の時?

 「しんどいという言葉は監督を引き受けた時に言わんとこうと(決めた)。妻にもしんどいとは言わないと(約束した)。あえて、しんどいことはなかったです。楽しかった…。それだけです」

 ―退任発表時に、最後は笑ってやりたいと言っていた。

 「今、鏡の前で練習してます(笑い)。風呂入ってる時とか。ただ、土壇場になったらどないなるんやろかなと。尾藤さんや上甲さんを見習いたいなと思ってるけど、そこまでの余裕があるかなと。人生の上での第1ステージの終了なんでね。第2ステージはどうなるか分からない。今後、ゆっくり考えたい」

 ※1 次期監督に就任する大角健二部長(36)。報徳学園の捕手として97年春夏、98年春夏と4季連続甲子園出場。03年からコーチを務め13年から部長。礒野剛徳コーチ(30)。同校投手として04年春夏甲子園出場。10年からコーチ。宮崎翔コーチ(30)。同校二塁手として04年春夏甲子園出場。13年からコーチ。

 ※2 「復興、勇気、希望」をスローガンに開催された1995年の第67回選抜高校野球大会。3月31日の1回戦で北海と対戦。6回まで無安打と沈黙し3点のリードを許したが、7回に中村の適時打で1点を返すと、8回2死満塁から中野が右翼線に走者一掃の二塁打を放ち、鮮やかな逆転勝ちを飾った。

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