21世紀枠、そしてセンバツの意義(下)

[ 2017年2月8日 09:30 ]

「第1回」と記された1948年選抜大会のポスター(野球殿堂博物館提供)
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 【内田雅也の広角追球】戦争中、5年間中断されていた中等野球(今の高校野球)甲子園大会は1946年(昭和21)夏、西宮球場で復活した。甲子園球場は進駐軍に接収されていた。

 選抜も復活に向けて動いていた47年3月、文部省から「大会中止」の通達が届いた。

 発端はCIE(GHQ民間情報教育局)が学校体育について打ち出した「学業重視」「シーズン制」「アマチュア精神順守」「校内試合重視」などの方針だった。中等学校野球連盟(中野連)の佐伯達夫氏(後の日本高野連会長)や主催の毎日新聞社は選抜の歴史を説明、収益のプール制などを提案するなど折衝、「中止には時間が足りない」となり、47年4月、甲子園球場で第19回大会が開催された。

 48年には再びCIEが規制強化を求めた。体育担当官ウィリアム・ニューフェルド氏は「全国的規模の大会は年1回が常識だ。夏を選手権と認めるなら、春は取りやめにしろ」と迫った。

 佐伯氏らは再び折衝に乗り出し「大会名から“全国”という名称を外す」「地元チーム中心の招待大会とする」という妥協案を提示した。

 衆議院議員で外務政務次官だった松本瀧蔵氏(2016年野球殿堂入り)やニューフェルド氏の通訳を務めていた三宅悦子氏も説得に協力。「教育的原則に厳格に従う」として文部省の認可を得たのだった。

 学制改革で「6・3・3・4制」となった48年、それまで「全国選抜中等学校野球大会」だった大会は「第1回選抜高校野球大会」となって開催された。通算の「第20回大会」と数え直されるのは1955年になってからである。

 当時の経緯で明らかなように、選抜は「招待大会」なのだ。そして、招待(選考)には主催者の思いがこもっている。

 今回、選考委員長を務めた八田英二・日本高野連会長は総括会見で21世紀枠で選出した部員10人の不来方(岩手)を取り上げ、異例のコメントを発している。

 「招待する主催者としての意志がある。戦力だけではない。少人数で活動を続ける全国のチームへ、頑張れば甲子園に出られるという力強いメッセージを込めた」

 部員数減少に悩む学校は多い。少年野球、中学野球の選手数も減っている。少子化以上に「野球離れ」が進む現状がある。危機感を抱く野球界にあって、未来に向けた希望がこめられている。

 確かに、選抜大会の選考は明確ではない。この曖昧性について経済学者、中島隆信・慶大商学部教授が昨年に出した『高校野球の経済学』(東洋経済新報社)で<センバツが抱える本質的な矛盾の表れでもある>としたうえで提言を行っている。

 <センバツを今後も残したいのであれば、私たちに求められることは選考の曖昧さを批判の対象としないことだ。“高校生らしさ”などというのは所詮曖昧なものだからだ。センバツは、球児たちに高校生らしく振る舞うインセンティブを与えるための大会だと理解すべきなのである>。

 長い間、ファンが高校野球に求めてきた、ひたむきさや高校生らしさという魅力について、主催者が招待で応える。困難克服やマナー、フェアプレーの模範といった価値観を考える。

 21世紀枠特別選考委員の写真家、浅井愼平さんは推薦9校のプレゼンテーションを聞き終えた際、「困難な時代を乗り越えようとする素晴らしいチームばかりだった。21世紀枠ばかりで大会を開きたいぐらいだ」と話していた。

 今後の高校野球のあり方を考えるうえで、選抜大会も21世紀枠も意義深くなる。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや)1963年2月、和歌山市生まれ。小学校卒業文集『21世紀のぼくたち』で「野球の記者をしている」と書いた。桐蔭高(旧制和歌山中)時代は怪腕。慶大卒。85年入社から野球担当一筋。大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は11年目を迎えた。

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