野球殿堂入りした星野仙一と平松政次――岡山県が生んだ2人の巨人キラー(4)

[ 2017年1月23日 09:30 ]

中日入団時の星野仙一氏(右)。小山・中日球団社長(左)と笑顔で握手。中央は代理人の島岡吉郎・明大監督(1968年12月20日撮影)
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】星野仙一さんは平松政次さんがセンバツ優勝投手になった1965年(昭40)4月、明大に入学した。慶大に行くつもりだったらしいが、倉敷商の矢吹監督に「俺の母校の明大に行け」と言われて決めたという。

 「先輩が誰もいない慶応に行ったらつぶされていたかもしれないな。先輩のいる明治に行ってよかった」

 その明大で御大、島岡吉郎監督の薫陶を受け、強者に立ち向かう闘魂を磨く。1年生からリーグ戦に登板し、東京六大学通算23勝をマーク。68年ドラフトの目玉選手の一人となった。

 この年はドラフトの当たり年で田淵幸一、山本浩司(のちに浩二)、富田勝の法大三羽ガラス、亜大・大橋穣、近大・有藤通世、富士鉄釜石・山田久志、箕島高・東尾修…。大物選手がめじろ押しだった。

 星野さんは子供の頃から阪神ファンだったが、どうしても阪神というわけではなかった。ドラフトが近づいたある日、合宿所にやってきた明大OBの巨人・沢田幸夫スカウトにこう言われる。

 「ウチは田淵で行く。もし田淵を先に取られたら星野で行くから、そのときは頼むぞ」

 当時のドラフトは予備抽選で指名する順番を決め、1番を引いた球団から一人ずつ指名するという方式で行われていた。予備抽選による指名順位は1番・東映(現日本ハム)、2番・広島、3番・阪神…。巨人は8番だった。阪神は巨人入りを熱望していた田淵を指名した。

 「これで巨人に決まりだなと思った。好きな球団じゃなかったけど、就職先と考えればいいと思っていたんだ」

 ところが、巨人が指名したのは無名の高校生投手、武相高の島野修だった。「島と星を間違えたんじゃないか」と漏らしたというのはあまりにも有名だ。「絶対に後悔させてやる」。巨人に対して強い敵愾心が生まれたのは言うまでもない。

 星野さんを指名したのは指名順位10番、水原茂新監督が就任したばかりの中日だった。水原さんは50年から60年まで巨人の監督を11年間務め、8度のリーグ優勝、4度の日本一を果たす。だが、56年から4年連続で日本シリーズに敗れるなど5年間日本一から遠ざかり、巨人を追われることになった。

 61年から7年間は東映(現日本ハム)で指揮を執り、62年にはチームを初のリーグ優勝、日本一に導く。9年ぶりのセ・リーグ復帰。巨人を見返してやりたい。その一念で中日の誘いに乗った。親会社同士がライバルの新聞社。星野さんはこう振り返る。

 「名古屋じゃ誰も“巨人”と呼ばない。“読売”なんだ。“読売には絶対に負けるな”ってね」

 巨人から「1位指名」の約束をほごにされての中日入団。球団、監督と心を一つにしての「打倒・巨人」のプロ野球人生がスタートする。 (特別編集委員=つづく)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年、岡山市生まれ。早大卒。物心ついたときから野球好き。小学4年生の65年春、センバツで優勝した岡山東商のパレードを自転車で追いかけた。

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2017年1月23日のニュース