野球殿堂入りした星野仙一と平松政次 岡山県が生んだ2人の巨人キラー(2)

[ 2017年1月21日 10:00 ]

1965年センバツ優勝投手の平松さん
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】一学年上の星野仙一さんが抜けても岡山県の高校球界には大物投手が揃っていた。岡山東商の平松政次さんをはじめ関西高の森安敏明さん、倉敷商の松岡弘さん。いずれものちにプロで活躍する「岡山三羽ガラス」である。

 もう一人、倉敷工に2年生まで捕手をやりながら投手に転向した片岡旭(のちに新之介)さんがいた。プロでは本来の捕手として活躍する片岡さんを加えると「岡山四天王」と呼ばれた。

 岡山黄金期。一学年上の星野さん、契約金5000万円で中日に入団する倉敷工の菱川章さんも含め、これだけの選手がよくぞ同時期に岡山にいたものである。平松さんは同学年のライバルの中で「実力的には森安が一番だった」と言う。

 スリークオーターとサイドスローの中間あたりから威力ある速球を繰り出す剛腕。1965年(昭40)の第1回ドラフトで東映(現日本ハム)に入団した。翌66年、開幕4戦目に初先発初完封勝利の衝撃的なデビューを飾りながら、黒い霧事件にかかわったとして70年に永久追放され、通算58勝に終わったのは残念でならない。

 松岡さんは三菱重工水島を経て67年ドラフト5位でサンケイ(現ヤクルト)入団。通算191勝を挙げた右腕である。

 そんなライバルに囲まれながら、岡山東商は64年の秋季大会中国大会に進出。1回戦は岩国商(山口)に8−0、2回戦は益田(島根)に7−1と快勝。準決勝は鳥取西(鳥取)を4−1で下した。決勝は初戦で関西高を8−1で破った米子東(鳥取)に1−2で敗れたが、センバツ出場を確実にした。

 ひと冬越した65年の甲子園。平松さんは快投を続けた。1回戦のコザ高(沖縄)戦から準決勝の徳島商(徳島)戦まで史上初となる4試合連続完封。藤田平を擁する市和商(和歌山)との決勝戦は4回、2死からの3連打で1点を失った。連続無失点記録は39イニングで途切れたが、踏ん張って1−1で延長戦に突入。11回表にもらった1点を守り抜き、全国制覇を果たすのである。

 岡山県勢唯一の甲子園優勝。小学4年生だった私は岡山駅前から岡山東商グラウンドまで行われたパレードを自転車で追いかけた。

 その夏、春夏連続甲子園を目指す平松さんは東中国大会代表決定戦となる岡山大会準決勝で松岡さんの倉敷商と3−3、8回日没で引き分けた。5日連投となった再試合では一塁に入った松岡さんに対し、先発して一人で投げ切り、5−2で勝利した。

 岡山県営球場で行われた東中国大会は1回戦で境高(鳥取)を4−0で破った。決勝の相手は最大のライバル、森安の関西高。再三のピンチをしのぎながら6回に3連打で1点の先制を許した。平松さんは7回に自ら右中間三塁打を放ち、右犠飛で同点の生還。延長11回、サヨナラ勝ちで宿敵を破るのだ。岡山県高校野球史に残る死闘。私は灼熱のスタンドで目撃した。自慢である。

 甲子園では大会第1日の第3試合、日大二(東京)戦は3−1とリードしていた5回途中、降雨ノーゲーム。肩はもう限界だった。翌日の第1試合に組まれた再試合は押し出し四球も出し、0−4で敗れた。

 「悔しさはなかった。東中国大会決勝、森安に投げ勝って燃え尽きましたから。春夏連続で甲子園に行けたけど、星野さんが同じ学年だったら、どうだったか…。難しかったと思う」

 高校卒業後、星野さんは明大、平松さんは日本石油(現JX―ENEOS)へ。やがて同じ思いで腕を振る日が来る。(特別編集委員=つづく)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年、岡山市生まれ。早大卒。物心ついたときから野球好き。小学4年生になる65年春、岡山東商のエース平松政次の快投に次ぐ快投、岡山県勢初の甲子園制覇に熱狂した。

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