天国の黒子に届いた栄誉 郷司裕氏殿堂入り

[ 2017年1月16日 17:00 ]

1969年、全国高校野球選手権大会で決勝再試合となった松山商・三沢戦の球審を務めた郷司裕さん
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 【内田雅也の広角追球】高校野球に魅入られた小学校から高校時代まで甲子園大会の決勝はいつも郷司裕さんが球審を務めていた気がする。調べれば、夏は10年連続を含め13度、春センバツは13度、計26度(1969年・松山商−三沢の再試合を含めれば27度)も球審を務めている。黒子と呼ばれる審判員にあって有名人だった。

 「偉大な方ですが、威張ったり、偉そうな振る舞いは一切なかった」と同時代に高校野球審判を務めた永野元玄さん(80)は言う。「心が真っすぐで優しい。1年生の若い審判員にも同じように接していました」

 同じことを後輩審判だった木嶋一黄さん(67=日本高校野球連盟審判技術顧問)は「若手もライバルだと認めていた」と話した。若手審判の成長を「うまくなってきたな」と褒めたうえで「彼らをライバルだと思わないとダメになる」。初心を忘れず、向上心を持ち続けた。

 木嶋さんが甲子園の審判員となって4年目、30歳のころだった。1979年の夏、小さなミスに悩み、逃げだしたくなった。先輩に相談すると「あと1試合やってみろ」。それが箕島−星稜戦だった。二塁塁審を命じられた。球審に永野さん、三塁塁審に関西大主将時代の監督だった達摩省一さん。「審判幹事の郷司さんがベテランの先輩を周りに配し“落ち込んでいる木嶋を囲んで助けてやれ”と励ましてくれている気がした」。延長18回、球史に残る名勝負となり、心が震えた。原点にかえった。

 「原点は校庭や小さなグラウンドでやる野球にある」と郷司さんは繰り返していた。「校庭の片隅や木陰で着替え、試合が終われば汗をふいて、そっと帰る。甲子園も一つの舞台に過ぎない」

 フェアプレーの精神は徹底していた。全国各地で開催する審判講習会である時、強豪校の監督がボークすれすれの投手けん制について「この辺までは大丈夫ですか?」と質問した。「あなたは何のためにそんなことを聞いているのですか。ルールは一つ。規則書に書いてある通りです」

 こうした姿勢が日本高野連会長だった佐伯達夫氏に認められた。「佐伯イズム」を体現する審判員でもあった。

 幼いころから野球が好きな少年だった。旧制明治中(現明大明治高)野球部時代、体を壊した。監督だった「御大」島岡吉郎さんに「マネジャーとなり、審判をやれ」と命じられた。明治大進学後は東京六大学野球リーグ戦で審判員を務めた。

 永野さんは慶応大時代、捕手として郷司球審と接した。ある試合で藤田元司投手(後の巨人投手・監督)の外角低め速球がボールと判定された。攻守交代の合間に「あれがボールですか」と尋ねた。「僕はボールと見たからね」

 後日、郷司さんに誘われた。「ストライク・ボールの研究をしようじゃないか」。東京・大井町の焼き鳥屋で酒を酌み交わした。永野さん20歳、郷司さん23歳。捕手と球審、表裏一体の野球談議から「人間として多くのものを学んだ」。

 よく飲み、よく話し、よく笑った。ただ、甲子園大会期間中は2週間以上も断酒となる。「何がうまいって、決勝が終わり、東京へ帰る新幹線の車中で飲む缶ビールは最高だよ」

 明治大同期に俳優・高倉健さんがいた。『鉄道員』(ぽっぽや)などの映画を好んで観た。

 06年12月12日、肺炎のため、74歳で永眠した。鬼籍に入って10年余りで届いた野球殿堂入りの栄誉である。

 木嶋さんは「ご存命なら……」と話して少し考えた。「いや、郷司さんなら“自分だけこんな栄に浴すわけにはいかん”と辞退されるでしょうね。そういう方です」

 彼の地なら断るわけにはいかない。今ごろは天国で、多くの審判仲間や先輩後輩に囲まれ、一杯やっているのだろう。(編集委員)



 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。小学校卒業文集『21世紀のぼくたち』で「野球の記者をしている」と書いた。桐蔭高(旧制和歌山中)時代は怪腕。慶大卒。85年入社から野球担当一筋。大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は11年目を迎える。

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