闘将思い出の別府で知った「青春」

[ 2017年1月5日 09:30 ]

西本幸雄氏は別府星野組の監督兼一塁手で都市対抗優勝、別府市内をパレードした。黒獅子旗(優勝旗)を持つのが西本氏(1949年8月)
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 【内田雅也の広角追球】血の池から龍巻と地獄めぐりを終え、タクシーに乗った。初老の運転手さんに行き先を告げると「えっ」と驚いた。「あそこはもう昔の面影もなくなっていましてねえ」

 年末、休暇をとって大分・別府温泉に家族で旅行に出向いた。別府を選んだのに特別な理由があったわけではない。小学5年生の息子は新幹線に乗ったことがなく、中学1年生の娘も九州に行ったことがない。自身の高校時代、修学旅行は別府など九州だったが、野球の秋季大会で行けなかった。旅行パンフレットを眺めて決めた。

 だが、実際に山陽新幹線と、小倉から乗り継いだ特急ソニック号で別府に近づくと、ある思いがこみ上げてきた。

 別府と言えば、西本幸雄さんではないか。言わずと知れた熱血の名将である。弱小球団の阪急、近鉄を初優勝に導き、通算31年の長きにわたりスポニチ本紙評論家を務めた。和歌山中(現桐蔭高)野球部の後輩として、お世話になった。2011年11月25日に亡くなって5年。今もその言葉が教えとなって、脳裏に刻まれている。

 「別府は青春の地だった。人生の転機となった所だった」と話していた。評論家時代に別府を訪れ、「ああ」と涙を流したこともあった。

 西本さんの青春に触れてみたい。そんな思いを口にすると、妻は「西本さんが呼んでいたのよ」と言った。

 終戦後、中国戦線から引き揚げた西本さんは京都で闇屋のような商売をしていた。「糸の切れたタコのようだった」。そんな時、立教大後輩の永利勇吉氏に誘われ、1947年(昭和22)秋、別府星野組に入った。戦後、兵舎やダム建設など進駐軍の仕事でひと山当て景気が良かった。

 だが48年春、選手兼任で監督に就くと、建設の仕事は下火となり、給料は遅配・欠配が相次いだ。「ボール13個、バット6本だったな。相手チームになめられんように、ケースには折れたバットも入れていたよ」

 当時のノンプロは人気があり、選手の引き抜きも横行していた。西本さんは監督としてチームを維持するため借金をして給料を立て替えていた。

 お金を借りた相手というのが日名子(ひなご)旅館の仲居頭の女性だった。星野組と日名子旅館の経営者は兄弟で選手が宿舎として使っていた。「野球が好きな女性だった。わが野球部の窮状を知り、蓄えていたお金を無利子で貸していただいた。今も、あの恩義は忘れない」。女性の名前も「仲摩政子(ただこ)さん」と覚えていた。

 運転手さんに告げた行き先はその日名子旅館である。「ここです」とタクシーが止まった。流川4丁目の交差点。家電量販店エディオン、上層階はマンションになっている。かつての別府港(楠港)から山の手に向かう流川通りは旅館や飲食店が並ぶ歓楽街だった。

 日名子旅館は後に日名子ホテルと商号を変え、1985年に倒産していた。「もう当時の面影は残っていません。星野組が活躍した当時のことは私も知りません。稲尾なら分かりますが……」

 後に西鉄で大投手となる稲尾和久氏は12歳の少年だった1949年(昭和24)、都市対抗で優勝した星野組が市内を凱旋パレードする光景を目にし、あこがれを抱いたと著書で記している。

 高校時代を大分で過ごした作家・赤瀬川隼氏の小説『夏の日の巡礼』=『ダイヤモンドの四季』(新潮文庫)所収=は、元ノンプロ投手で、病床に伏す父に代わり、親友の消息を知るため、娘が別府を訪ねる。出会った老人が当時を熱っぽく語る。荒巻淳や西本幸雄ら選手名が次々と出てくる。「地場の会社の星野組なんてのが都市対抗野球で全国優勝するなんて時代はもう遠い昔のことになりましたなあ」

 跡地を訪ね、「野球で食べていこう」と志を立てた西本さんの青春に踏み込めた気がした。

 サミュエル・ウルマンの名詩『青春』を思う。<青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う><青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する><年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる>

 新年を迎え、また一つ年をとった。問題は心である。天国の闘将に、青春の意味を教えられた気がした。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。小学校卒業文集『21世紀のぼくたち』で「野球の記者をしている」と書いた。桐蔭高(旧制和歌山中)時代は怪腕。慶大卒。85年入社から野球担当一筋。大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は11年目を迎える。

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