木田画伯 ジャッキー・ロビンソン背番「42」に敬意、感謝

[ 2016年12月29日 04:19 ]

ジャッキー・ロビンソンへの思いをつづった木田画伯
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 日本ハム・木田優夫GM補佐(48)による今年最後の「木田画伯の球界絵日記」は、選手にとって「代名詞」でもある背番号について。現役時代、巨人での47番からスタートした自身の背番号には、いろいろな思い出があります。中でも歴史を変えたメジャーリーガーとして、球史にその名が残るジャッキー・ロビンソンの「42」。よみがえる思い出とともに願うのは、それぞれの思いで背番号を背負う選手たちの活躍です。

 先日、斎藤投手と岡選手の背番号の変更を発表しました。2人には新しい背番号で、さらなる活躍をしてほしいと思っています。プロ野球選手には背番号にこだわりを持っている選手がいます。イチロー選手の51番、松井秀喜選手の55番などは本人のこだわりとともにファンの皆さんもその背番号でイメージしているんじゃないでしょうか。

 僕自身はジャイアンツ入団時の47番からたくさんの背番号を付けてきましたが、その中で、2回付けたのは41番と42番でした。41番は中学生のころから憧れていたメジャーリーグの大エース、トム・シーバー投手の番号です。もうひとつの42番は映画にもなったので知っている方も多いと思いますが、ジャッキー・ロビンソン選手の番号です。今はメジャーリーグ全体の永久欠番になっていて、メジャーでは付けることができません。

 僕がジャッキーのことを強く意識するようになったのは、ドジャースに入団した2003年からです。当時のGMのダン・エバンス氏がマイナー全選手に対してミーティングを行ったとき、「このキャンプ地の中に9ホールのゴルフ場があるが、あれは昔、普通のゴルフ場ではジャッキーと他の選手が一緒にプレーできなかったので、ジャッキーがチームメートと一緒にゴルフができるようにするために造ったゴルフ場だ」と教えてくれました。そして「そういう歴史のある場所で歴史のあるユニホームを着ていることを忘れないでくれ」と言われました。

 メジャーリーグの長い歴史を考えると、ジャッキーがいたから、何年も後になりますが、ハンク・アーロン選手が、バレンズエラ投手が出てきて、野茂投手が誕生したと言える部分があると思います。大きく捉えると、僕がメジャーで投げられたのもジャッキーのおかげだと考えられると思います。そういう思いを込めてスワローズでの3年間とファイターズの3年間は42番を付けました。

 ところで、例のゴルフ場ですが、そのミーティングのときに、翌年もドジャースと契約できたらキャンプ中にプレーしようと思っていたのですが、2004年のキャンプでフロリダに戻ったらドジャータウンの経営不振で閉鎖されていました。今はどうなっているのでしょうか。 (日本ハムGM補佐)

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2016年12月29日のニュース