“鉄仮面”加藤初氏 死去 巨人移籍1年目にミスター初V立役者

[ 2016年12月21日 05:30 ]

77年にノーヒットノーランを達成するなどし、長嶋監督(中央)のセ・リーグ初制覇に貢献した加藤氏(左)
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 西鉄、巨人などで投手として活躍した加藤初(かとう・はじめ)氏が11日午後2時32分、直腸がんのために静岡県内の病院で死去した。66歳。静岡県出身。巨人が20日、発表した。妻・和江(かずえ)さんが喪主を務め、葬儀・告別式は既に執り行われた。現役時代はマウンド上で表情を変えない「鉄仮面」の愛称で呼ばれた右腕。トレードで移籍した76年には長嶋巨人の初優勝に貢献するなど、いぶし銀の投手として球史に名を残した。

 「鉄仮面」は、生まれ故郷の静岡でひっそりと天国へと旅立っていた。加藤氏は11年に投手コーチを務めていた韓国・SKを退団して帰国。その頃からすでに体調を崩しており、自宅のある神奈川県内の病院へ入退院などを繰り返していた。

 関係者によると「おなかが痛い」などと訴え、外出することもあまり望まなかったという。西鉄、巨人などかつての仲間との連絡も徐々に減っていった。3年ほど前に次男の自宅がある静岡県御殿場市に転居。長い療養生活を続けていた。巨人が11日の死去を発表したこの日は、生きていれば67歳の誕生日だった。

 マウンド上ではポーカーフェースに徹し、喜怒哀楽の感情を出さず「鉄仮面」の愛称で知られた。71年ドラフト外でプロ入り。当時の西鉄は「黒い霧事件」と呼ばれた八百長問題で主力投手が退団した直後で、東尾修氏(本紙評論家)との二枚看板で1年目からフル回転した。48試合で17勝を挙げ新人王を獲得。トレードで巨人に移籍した76年4月18日の広島戦(広島市民)では、史上51人目のノーヒットノーランを達成した。同年は15勝4敗8セーブ。前年に最下位だった長嶋茂雄監督の初優勝に貢献した。

 そんな加藤氏の鉄仮面の裏には、故障の苦しみが隠されていた。76年オフに肺門リンパ腫で入院。医師からは運動をやめるよう言われたが、現役続行を強く希望した。83年には右肩の血行障害に見舞われ、一時は右腕が胸より高く上げられなくなった。日常生活にも苦労するほどで、33歳にして手術を決断。球界で初めて大腿部の血管を右肩に移植する施術を受けた。9月末に復帰。86年には14勝を挙げるなど不死鳥のごとく復活し、40歳まで現役生活を続けた。

 投球では3ボール2ストライクが多く、通算950与四球は歴代24位。それでも黙々と、表情を変えずに打者に向かっていった。140キロ中盤の直球に落差のあるフォーク。ノーワインドアップから投じるフォームは美しく、背番号21は昭和の野球ファンの脳裏に深く刻まれている。巨人での最後の2年間は投手コーチ兼任。引退後は西武だけでなく台湾、韓国でも長くコーチを務めた。「最後の頃はあまり話もできない状態だった」と関係者。自らの投球で、何よりも雄弁に語る。加藤氏はそんな投手だった。

 ◆加藤 初(かとう・はじめ)1949年(昭24)12月20日、静岡県生まれ。吉原商(現富士市立)から亜大に進み、中退後に大昭和製紙に入社。71年の都市対抗野球に出場し、同年ドラフト外で西鉄に入団した。72年に17勝を挙げて新人王。76年にトレードで巨人に移籍。90年に引退。現役通算は490試合で141勝113敗22セーブ、防御率3.50。球宴出場6度。巨人、西武や台湾、韓国でも投手コーチなどを歴任した。

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