「一人野球」で育む夢

[ 2016年12月12日 09:00 ]

フロリダのメッツ・キャンプ施設内にある練習用の壁(2002年2月撮影)
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 【内田雅也の広角追球】実家のブロック塀は今も1カ所だけ黒くくすんでいる。少年時代、それこそ数え切れないほどボールをぶつけていた。その一角がストライクゾーンだったからだ。塀には小さな段差があり、出っ張りに当たると大きく跳ね返る。打球が背後の隣家の屋根や塀に当たる。その高さで本塁打、三塁打、二塁打……などと判定していた。

 路地のやや高くなった場所をマウンドにして、甲子園に出た高校のエースの気分に浸った。頭のなかではテレビ中継の実況が自分の名前を伝えている。帳面に組み合わせのトーナメント表とイニングスコアを書き込んでいた。そんな「一人野球」を放課後や休日、日が暮れるまで楽しんだ。

 妄想を抱きながら、一人で壁にボールを投げ続けているのは恥ずかしいことなのだと、誰にも話さなかった。長らく秘め事にしていた。

 長じて、読んだ本や聞いた話に、少年時代、同じような一人野球に興じた人が多いことに驚いた。

 詩人・平出隆は自宅アパートの壁で<あっという間に熱狂のスタジアムに変貌する>と著書『白球礼賛』(岩波新書)に「ひとりぼっちの西鉄-南海」として記している。段差で打球が変化したり、記録帳を作っていたのも同じだ。「試合は9回裏、2対1で南海リード」。耳の中の実況放送では稲尾和久と杉浦忠が投げ合っていた。

 2001年ワールドシリーズで取材したランディ・ジョンソン(当時ダイヤモンドバックス)は第6戦で勝利投手になり「明日も投げる気はあるか?」と問われ「当たり前じゃないか」と答えた。「子どもの頃、いつもワールドシリーズの最終第7戦で投げる自分を夢想しながら壁に向かってボールを投げていたんだ」。実際に救援で連投、優勝に導いた。

 名遊撃手オジー・スミス(カージナルス)が、野球殿堂入りした02年にクーパースタウンで行った受賞演説は忘れられない。「幼い頃、数限りないワンマン・ベースボール(一人野球)で遊んだ」と語っていた。「ボールを屋根に放り上げ、戻ってくるところを捕球する。最初のグローブはスーパーの紙袋だった。目をつぶったまま放り上げて捕球できるようになった頃、メジャーリーグの夢を抱くようになった」

 作家・赤瀬川隼はその名も『白壁』=『ダイヤモンドの四季』(新潮文庫)所収=で、自身の経験を描いている。主人公の父親が少年時代、ボールをぶつけて遊んだ実家の白壁に、今は息子がボールを投げている。

 父との会話がめっきり減った息子が口を開き、ドジャースのキャンプ地、フロリダ州ベロビーチ(当時)には練習用の壁がある、と伝えるシーンがある。

 02年にベロビーチを訪れると、確かに壁はあった。聞けば、マイナー最下部のドミニカ共和国の野球学校にも同じ壁を設けているそうだ。

 メッツ・キャンプ地のポートセントルーシーにも丸印をつけた壁があった。投手が投球やけん制、野手ならゴロ捕球の練習を一人で行える。

 吉田義男も阪神若手時代、甲子園の外野フェンスの壁当てでゴロ捕球・送球練習を繰り返したそうだ。地面にデコボコのトタン板を敷き、不規則バウンドに対応する特訓も行っていた。

 今はボールをぶつける壁もない……という話はいずれ書く。古今東西、一人野球は多くの夢を育み、何とも魅惑的だったのである。(編集委員)=敬称略=

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。小学校卒業文集『21世紀のぼくたち』で「野球の記者をしている」と書いた。桐蔭高(旧制和歌山中)時代は怪腕。慶大卒。85年入社以来、野球担当一筋。大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は10年目を終えた。昨年12月、高校野球100年を記念した第1回大会再現で念願の甲子園登板を果たした。

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