中後悠平 戦力外からメジャー昇格あと一歩「野球人生で一番いい年だった」

[ 2016年9月24日 08:00 ]

マイナー生活を語る中後

 戦力外から、メジャーの舞台へ――。今季、ダイヤモンドバックス傘下のマイナーでプレーした中後悠平投手(27)が、シーズンを終えて帰国した。昨季限りでロッテを退団。しかし、戦力外選手を特集したテレビ番組がきっかけとなり、新天地へと足を踏み入れた。3Aでは13試合連続無失点。わずか10万円を手に海を渡り、メジャー昇格まであと一歩に迫った。「和製ランディ・ジョンソン」と称された変則左腕の挑戦の足跡を追った。 (取材=鈴木 勝巳、大林 幹雄)

 どん底を味わった。あれからまだ、1年もたっていない。中後の目に映る景色は、取り巻く環境は大きく様変わりした。

 「野球人生の中で、一番いい年でしたよ。全てにおいて。成績を残せたし、いろんな経験をさせてもらって…」

 昨年限りでロッテを戦力外になった。11月の12球団合同トライアウトは打者3人に3四死球。一つのアウトも取れなかった。一度は独立リーグのBCリーグ・武蔵に入団も、12月30日にTBS系列で放送された特番「プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」で、左腕の運命は180度変わった。番組を見たメジャー関係者が興味を持ち、ダ軍に加えてレンジャーズ、フィリーズのスカウトが視察に。今年3月にダ軍とマイナー契約。そして、海を渡った。

 「本当に基礎から、一から教えてもらった。僕は日本では“投げることしかできない、変則フォームでちょっと球が速いだけ”みたいなのが持ち味だったので」

 4月6日に渡米。アリゾナ州での延長キャンプに参加した。大半がルーキーリーグの年下選手の中で投内連係や「ずっと課題だった」という投ゴロを処理しての一塁送球の練習を繰り返した。7月、1Aの中でも実力が上位の「ハイA」のチームに所属した。変則左腕で球速150キロ前後の中後だったが、3試合で計4失点。6四死球と乱れたことで行動に出た。

 「ここで断ち切らないと意味がない。何でアメリカまで来て野球をやっているんだ。絶対にはい上がるんだと。だから監督やコーチ、チームメートに聞いたんです」

 問いは単純だった。「どうすればストライクが取れるか?」。意地やプライド、恥ずかしさなどが邪魔をして、日本では絶対にしなかった質問だった。指揮官は丁寧に答えてくれた。「自信のある球種は?」「コースは?」「じゃあ初球は絶対に外の真っすぐ。3球目までにストライクを取れ」…。同時に「楽しめ。難しいが、そう思うことで気持ちが楽になる」とアドバイスされた。

 「気持ちが楽になった。あれが分岐点だった。やっぱりメンタル。成功して自信になって、3Aで抑えているうちに確信になった」

 シーズンを通じて失点はその3試合だけ。8月に昇格した3Aでは13試合連続無失点だった。メジャーの舞台までほんの少しだけ届かなかったが確かな手応えが残った。

 「(ロッテを)クビになって良かったなと思っているんです。収入も減ったけど、違う環境で野球ができて得たものはいっぱいあったので」

 自家用車は売却した。わずか10万円と、一足のスニーカー。渡米時に持っていた現金はすぐに使い切った。延長キャンプで給料はなく、球団から支給される1週間のミールマネー(食費)は約100ドル(約1万円)。スニーカーは履きつぶしてボロボロになった。

 「においがメチャクチャ臭くて。だから靴だけ買いましたけど、アメリカではお金は全然使ってない。物欲がホンマなくなりました」

 シーズンが終わり、帰国した現在は神奈川県内の夫人の実家で暮らす。9月。中後は早くも来季に思いを巡らせる。

 「日本(NPB)に戻りたい気持ちもゼロじゃないんです。でも、(メジャーまで)あと一歩のところまでいけた。自分の腕を信じれば、頑張れば…」

 人は夢を食って生きていく。壮大などんでん返し。物語の続きは、中後が自身の左腕で紡ぐ。

 ◆中後 悠平(なかうしろ・ゆうへい)1989年(平元)9月17日、大阪府生まれの27歳。近大新宮3年夏は和歌山大会8強で甲子園出場はなし。近大では2年春に3勝を挙げMVP。3年時には世界大学野球の日本代表に選出された。11年ドラフト2位でロッテに入団。12年4月22日西武戦(QVCマリン)で初勝利。昨季限りで戦力外となった。通算成績は37試合で2勝2敗、防御率5・68。1メートル83、76キロ。左投げ左打ち。

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