後藤次男さん逝く 阪神監督2度、OB最高齢「仏のクマさん」

[ 2016年6月3日 06:15 ]

後藤次男さん

 戦後の阪神主力選手で監督を2度務め、阪神OBで最高齢だった後藤次男(ごとう・つぐお)氏が5月30日午後10時30分、老衰のため、西宮市内の病院で死去した。阪神が2日、発表した。92歳だった。熊本県出身。通夜、葬儀・告別式は近親者による密葬ですませた。猛虎一筋に生き、「クマさん」の愛称で親しまれた人格者だった。

 後藤氏本人の生前の希望により、通夜は5月30日、葬儀・告別式は1日に西宮市内で近親者による密葬で営まれた。

 葬儀に参列し、別れを告げた元阪神コーチ、虎風荘寮長だった梅本正之氏(79)によると、「実に穏やかな表情をしていた。文字通り“仏のクマさん”だった」という。後藤氏は誰からも親しまれ、現役選手、監督時代から「仏のクマさん」で通っていた。

 死因は老衰だった。関係者によると、1年ほど前から胆のうなどにがんが見つかっていた。5月30日は最近よく通っていたという健康ランドで友人と入浴する予定を断り、体調が悪化。西宮市内の病院に搬送され夜に息を引き取った。関係者によると、苦しまずに安らかな最期だった。

 1994年に喜美子夫人を亡くしてからは甲子園の自宅で独り暮らし。子どもはいない。近所の友人とマージャンを楽しみ、自転車で行きつけの喫茶店に通うなど元気に過ごしていた。昨年7月に白坂長栄氏(当時92歳)が死去し、阪神OBで最高齢となっていた。

 「甲子園球場と同い年」と話していた後藤さんは1924年(大正13)1月15日、熊本市で生まれた。熊本工では川上哲治氏(元巨人監督)の後輩。春夏3度、甲子園での全国大会に出場。法政大で4番を打ち、44年学徒動員で入隊後に復学。戦後48年、阪神(当時大阪)入り。主に3番を務めた。57年限りで現役を引退。コーチ、2軍監督を務め、藤本勝巳、遠井吾郎の開花に一役買った後、69、78年と2度、監督を務めた。69年は2位、78年は球団史上初の最下位を味わった。

 温厚で、78年には記者団からキャッチフレーズを問われ「横文字は苦手。明るく、厳しくでいこう」と答えた。負けがこむと「どうすればええかのう」と記者団に相談するような人柄だった。温かみのあるテレビ解説でファンにも人気だった。

 最近では13年11月のOB会総会・懇親会で卒寿の特別表彰を受け、昨年の同会では乾杯の音頭を取った。球団創設80周年の昨年は4月7日DeNA戦(甲子園)で始球式の投手を務めた。

 球団では偉大な先人を悼み、きょう3日の西武戦(甲子園)では半旗を掲げ、選手たちは喪章を付け試合に臨む。

 ◆後藤 次男(ごとう・つぐお)1924年(大13)1月15日生まれ、熊本県出身。熊本工、法大を経て48年に阪神入団。49年から4年連続で打率3割。50年3月29日から4月2日にかけての連続打席塁打25はプロ野球記録。守備では投手と遊撃以外の7ポジションを守った。57年引退。通算949試合、923安打、51本塁打、355打点、打率.283。引退後はコーチ、2軍監督を経て69、78年と2度阪神監督を務めた。右投げ右打ち。

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2016年6月3日のニュース