元ソフトB松中が引退決断 自ら売り込むもオファーなく…

[ 2016年3月1日 05:30 ]

ホークス一筋19年で現役生活を終えることを決断した松中

 2004年に3冠王に輝いた元ソフトバンクの松中信彦内野手(42)が29日、現役引退を決断したことを明かした。同日、福岡市内でスポニチ本紙取材に答えた。出場機会を求めて昨年ソフトバンクを退団し、NPB他球団での現役続行を希望していたが、期限に設定していた2月末までに獲得へ名乗り出る球団はなかった。1日に福岡市内で引退会見を行う。卓越した打撃技術を誇った平成唯一の3冠王が静かにバットを置く。

 決断の期限に設定した2月29日。ソフトバンクを除くNPB11球団から連絡は入らなかった。男に二言はない。松中は19年間の現役にピリオドを打つと決断した。

 「あそこで辞めていた方が、悔いが残った。最初から少ないチャンスだと思っていたので覚悟はできていました。これが僕の野球人生です」

 昨年9月29日、ヤフオクドームで記者会見を開いた。引退ではなく退団で、現役続行を希望。まだやれるという思いは消せなかった。NPB他球団からいつ声が掛かってもいいように、年明けはグアムや社会人時代の古巣である千葉県君津市の新日鉄住金かずさマジックなどで自主トレを重ねた。「筋量は05年よりも多い。ことしが一番、体はできていた」と話していたが、現実は厳しかった。

 オファーがあったのは独立リーグ1球団だけだった。2月に入るとNPB6球団に自ら電話で売り込んだ。04年に3冠王を達成したほどの男がプライドを捨てた。「(引退までの)最後の1ピースをどう、はめるのかを考えてきた」。だが、各球団が世代交代を進める中でチャンスは巡ってこなかった。

 3冠王に加え、06年の第1回WBCでは4番に座り王貞治監督率いる侍ジャパンを世界一へ導いた。03年からの3年連続120打点以上は現在もプロ野球記録だ。「一番、楽しかった」と振り返るのは西武在籍時の松坂との名勝負。05年7月15日(ヤフードーム)では1試合3本塁打の離れ業、01年6月2日(福岡ドーム)では初回2死一塁、松坂の内角の直球にバットを折りながらも130メートル弾を放った。いくつもの放物線がファンを魅了した。

 最後まで現役の可能性を探り、もがいたのは平成唯一の3冠王にはふさわしくない引き際だったかもしれない。ただ、八代第一(現秀岳館)時代に利き腕の左肘を故障し右投げに一時転向してまで社会人野球に進んだ過去もある。泥くさく、ひたむきに野球へ打ち込んだ松中らしいゲームセットだった。 (福浦 健太郎)

 ◆松中 信彦(まつなか・のぶひこ)1973年(昭48)12月26日、熊本県生まれの42歳。八代第一(現秀岳館)では甲子園出場なし。新日鉄君津(現新日鉄住金かずさマジック)2年目の93年から補強も含めて4年連続都市対抗出場。96年はアトランタ五輪で日本代表の4番を務めて5本塁打16打点。同年ドラフト2位(逆指名)でダイエー入り。04年に史上7人目(11度目)の3冠王に輝く。15年に19年間在籍したソフトバンクを退団。1メートル83、97キロ。左投げ左打ち。

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