【中日・和田一浩の決断2】「解放された」けど「やっぱり野球が好き」

[ 2015年12月4日 12:00 ]

ナインに胴上げされる和田

 今、和田は19年間の野球人生を振り返る。

 「単純に言って、きついことばかりだった。野球は“仕事”としてしか見ていなかったから。プレッシャーもあったし、何より数字との戦いの方が大きかった」。そして、ポツリとつぶやいた。「早く解放されたかった…」。30歳で初めて規定打席に到達した遅咲きの男。その02年から、12年連続でシーズン100安打以上をマーク。通算打席数は7731。その全てが「戦い」だった。修行僧、求道者のように数字を追い求めた。

 思い出深いのは、入団2年目の98年8月4日近鉄戦(大阪ドーム)。8回にマットソンから初本塁打を放った。「プロでやっていけるかな、と思った。やっと第一歩を踏み出せた」。しかし、野球人生で最も脳裏に刻み込まれたシーンは、日本代表として出場した04年アテネ五輪だという。今でも震えるような緊張感を思い出す。

 「あれほど緊張したことはなかった。銅メダルだったけど、それ以上のものを得た。いろんなシーン、あの期間のことは鮮明に覚えている」

 暑かった8月。和田は全9試合に出場し、チーム3位の打率・333、2本塁打、6打点の成績を残した。カナダとの3位決定戦でも「5番・DH」で2安打2打点。背番号は55を背負っていた。「凄くいい大会だった。今でもチームメートのことは大切に思っている」。世界の舞台で、これまでとは違う重圧を体験した。そして43歳となる今季までプレー。それでも、野球の極意には手が届かなかったという。

 「数字に勝てる選手はいない。パーフェクトはありえないし、いかにもがくか。いい数字に近づけるように努力するか」

 潔くユニホームを脱いだ時「やっと解放された」と素直に感じた。しかし今、和田は思う。「解放されてしまうと、野球がやりたいな、と。あのプレッシャーの中でやりたいと思ってしまう。やっぱり、野球が好きだったんだな」――。今後は評論家として活動する。4人の子供ら家族と旅行にも行きたい。将来、指導者としてユニホームを着たいのか。「今の段階ではないよ」と笑った。

 好きな言葉は「不撓(ふとう)不屈」。母校・県岐阜商の校訓だ。プレッシャーと戦い、もがき続けて、決して屈しなかった。それが和田一浩の野球人生だった。 (鈴木 勝巳)

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2015年12月4日のニュース