50年前をクローズアップ!第1回ドラフト会議までの長い道のり

[ 2015年10月22日 10:30 ]

第1回ドラフトで巨人に1位指名された甲府商・堀内恒夫投手は張り切って練習に臨む

 今からちょうど50年前、1965年にその歴史をスタートさせたプロ野球ドラフト会議。その記念すべき第1回ドラフトは手探り状態だったこともあり、予想外のトラブルが続出したことでも有名だ。その歴史を紐解いてみよう。

◎高騰する契約金を何とかしないと……

 そもそも、ドラフト会議が発案されたのは第1回会議の約1年前。1964年10月2日、12球団の代表者が集まっての「第7回実行委員会」で、議題として「契約金高騰抑制に関する件」が話し合われたのが発端だ。

 ドラフト制度が導入される以前は、新人選手の入団について明確なルールがなく、高い契約金を払う球団に有望選手は集結。当然、資金力豊富な球団に“逸材”は集まり、戦力の均等化は夢のまた夢だった。

 同時に金満球団にとっても、青天井になっていた契約金を抑制しなければ、今後は立ち行かなくなるという懸念もあり、12球団が足並みを揃えて会議は進行していった。

◎「球界の信号機」として発案されたドラフト会議

 このとき、原案となったのが西鉄・西亦次郎代表が提案した「新人プール案」。プロ入り希望者たちを一旦、ひとつの窓口にプールし、抽選で所属球団を決めようというもの。つまり「日本プロ野球機構」で新入団選手をとりまとめ、その上で巨人や阪神など、選手たちの配属先を決めていくという考え方だった。

 このアイデアに各球団は賛同。当時、コミッショナー代行を務めていた鈴木龍二氏は「こんどの新規定は過当競争を排し、混乱と浪費を予防しようとするもので、いわば“球界の信号機”の役割を受け持つものです」と宣言している。こうしてドラフト制度はそのルールを固めていった。

◎最初はじゃんけん? 第1回ドラフトの顛末とは

 この原案を基に、約1年間の歳月を経て細かいルールを整備。ついに1965年11月17日、第1回ドラフト会議が東京日比谷・日生会館において開催された。

 午前10時、会場に詰めかけた約100人の報道陣の異様な熱気の中で会議はスタート。まずは両リーグの間でウエーバー方式の優先権を決めるため、この年の最下位球団であった産経と近鉄によるじゃんけん、そしてくじ引きが行われた。

 その後、報道陣は会場から閉め出され、12球団が事前に提出していた「指名リスト」が関係者に配布され、「第一次選択」が始まったのだ。

◎指名拒否が続出した第1回ドラフト

 この第1回ドラフトは、指名選手サイドからの不満が大きかったといわれている。というのも、前年までであれば好きな球団に、しかも高額な契約金で入団することができたのに、一転、球団は選べず、契約金の上限も1000万円に定められてしまったからだ。

 ドラフト制度の目的が「戦力の均衡化」と「契約金の抑制」であるため仕方がないことではあるのだが、「あと1年早く生まれていれば……」と思った選手は多かったに違いない。

 だからなのか、第1回ドラフトでは指名拒否が相次いだ。有名なところでは谷沢健一(習志野高・阪急4位)、江本孟紀(高知商高・西鉄4位)、平松政次(岡山東商高・中日4位)といった面々がこの年、入団を拒否。全体でも指名選手132人に対して入団した選手はわずかに52名。入団率は39%という低さだった。

 あれから50年。今年で51回目を迎えるプロ野球ドラフト会議はいったいどんなドラマを描き出すのか。10月22日の運命の日を待ちたい。(『週刊野球太郎』編集部)

続きを表示

2015年10月22日のニュース