戦前最後のノーヒッター 神風に散った22歳・石丸進一の在りし日

[ 2015年8月4日 11:30 ]

石丸の写真を持つおいの剛さん

 戦後70年が過ぎようとしている。当たり前のように球音が響く平和で、幸せな時代。しかし、第2次世界大戦ではプロ野球界も例外ではなく、多くの選手が戦火に散った。そんな中で唯一、神風特攻隊員として戦死したのが石丸進一投手(享年22)だ。名古屋(現中日)の一員として、戦前で最後のノーヒットノーランを達成した右腕。おいの石丸剛さん(63)に、ありし日の石丸の姿を聞いた。(鈴木 勝巳)

 石丸進一は、どこにでもいる野球が大好きな青年だった。「投手じゃない日は野手で出場したり、試合のない日は近所の子供と草野球をしたり…。本当に野球が好きだった、と父から聞いています」。石丸剛さんは進一の兄で同じ名古屋でプレーした石丸藤吉(91年死去、享年77)の息子。現在も遺品や写真などを管理している。

 父から聞いた剛さんの話によると、石丸が最後に残した言葉は、モールス信号での「我、突入す」だったという。1945年5月11日。鹿児島・鹿屋基地から沖縄方面へと出撃した。500キロの爆弾を抱えて。そして、そのまま帰らぬ人となった。藤吉が最後に会った時は「敵艦に体当たりして轟沈(ごうちん)させる」と話す弟を、「そんなに死に急いでどうする!」と諭したという。「兄さん、そんなこと分かってるよ」――。それが石丸の答えだった。出撃前、鹿屋基地では戦友に「死にたくない、怖い」とも漏らした。兵舎の陰で泣いている姿もあった。22歳。死の恐怖と必死に闘っていた。

 石丸は41~43年に名古屋でプレー。投手として42年に17勝、43年に20勝を挙げた。捕手に「ミットを動かさないで」と告げ、低めへの抜群の制球力を武器に常に直球勝負だった。戦争がなければ、どれだけの成績を残しただろう。全ての運命は狂い、そして戦争に命まで奪われた。

 出撃直前。石丸は鹿屋基地で、東京六大学・法大出身の本田耕一少尉を相手に、最後のキャッチボールを行った。万感の思いを込めて投じた10球。従軍記者だった山岡荘八(のちの作家)が審判を務め、「涙でよく見えなかった」という10球は全てストライク。そしてグラブを置き、ボールを戦闘機へと持っていった。出撃。しかし、石丸は持っていったはずのボールを鉢巻きで巻いて、風防から放り投げたという。これから死ぬ、と分かっている時の最後のキャッチボール。そのボールに永遠の別れを告げ、死地へと旅立った。剛さんは「どんな思いだったのか…」と今でも考える。

 「こういう形で一人の若者が亡くなった、ということを忘れないでほしい、と思います。こういう事実が日本にあった。平和に野球ができるのが当たり前、と思わずにいてくれれば」と剛さん。あれから70年。「私の叔父は、敵国のスポーツといわれた野球をこよなく愛していた。職業軍人でも、反戦活動家でもない。ただ純粋に野球がやりたかったんです」。盛夏。各地で聞かれる球音は平和の、そして鎮魂の響きにも聞こえる。

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2015年8月4日のニュース