【高校野球100年】池田・江上元主将が明かす「やまびこ打線」誕生の裏側

[ 2015年6月30日 11:00 ]

82年、夏の高校野球・早実戦の1回、荒木大輔から2ランを放った江上光治

 1974年夏の大会から導入された金属バット。以降、数々の強打のチームが出現した中で82年夏、83年春と夏春連覇を達成した故蔦文也監督率いる池田(徳島)の「やまびこ打線」は甲子園を震撼(しんかん)させた。3年時は主将を務めるなど、3大会で3番を打った江上光治氏(50)が強力打線誕生の裏側を明かした。(吉村 貢司)

 「攻めダルマ」の異名を取った蔦文也監督に率いられた池田が、全国の頂点に立った1982年夏。大会通算本塁打は初めて30本の大台を超える32本を記録した。

 1974年夏から導入された金属バット。当時は5分の3ほどの選手が使用し、大会本塁打も前年の10本からわずか1本増の11本。その後も微増にとどまっていた本塁打が、この年を境に飛躍的に増えた。池田は当時の大会記録を塗り替えるチーム7本塁打(現在は00年・智弁和歌山の11本塁打)など全6試合で2桁安打  の計85安打と猛打で優勝。以降大会本塁打は31本、47本、46本と一気に増えるパワー野球の時代が到来した。

 81年秋の四国大会1回戦で敗れ、センバツ切符を逃した蔦監督は「戦略よりも選手の体を強くした方がいい、基礎的な筋力をつけないと個々のパフォーマンスが上がらない」と、当時としては珍しい本格的な筋力トレーニングの導入を決断した。1時間限定の新練習は10回腕立て伏せや背筋をした後にダッシュやハードルを使用したトレーニング。並行してタイヤの巻き上げ巻き下ろし、「アザラシ」と呼ばれ手だけを使って校舎内を動き回る運動など、特に上半身や腕回り、手首の強化に重点を置いた。実戦を想定して走者を置いた打撃練習では、後にともにドラフト1位指名される畠山準、水野雄仁との真剣勝負。「投手力あっての強力打線。(全国レベルの)スピードにも慣れたし強い打球を受けるのでいい守備練習にもなった」と江上。翌春には打球の飛距離、スピードが飛躍的に伸びていた。

 そして迎えた82年夏。徳島大会5試合計41得点。3年ぶりの甲子園も順当に勝ち進み、準々決勝は荒木大輔擁する早実戦。初回1死一塁で江上は荒木のカーブを「力を入れず振ったのにスタンドに入った。めちゃめちゃうれしかったですね」。終わってみれば3本塁打を含む全員の20安打で圧勝。決勝の広島商戦も初回2死から6点を奪うなど、大勝で徳島勢初の夏の全国制覇を果たした。

 翌83年センバツは対戦前から相手校が「凄い打つチームと思ってくれていて、すでにハンデがついていた」。1回戦の帝京戦は好投手の山田から初回に吉田の3ランなどで4点を奪って圧勝。準決勝の明徳(現明徳義塾)戦は8回に2点を奪って逆転勝ち。決勝では横浜商を下して史上4校目の夏春連覇を達成した。

 「僕らがうまかったのではなく、先生方がよく(あのチームを)つくってくれたというのが本音。同じメンバーが他校に行っていたら絶対にあのチームにはなっていない」と江上は振り返る。名将の決断、金属バット、そして筋力トレーニング…。「やまびこ打線」はさまざまな要因が共鳴し、形成された奇跡の打線でもあった。=敬称略=

 ◆江上 光治(えがみ・こうじ)1965年(昭40)4月3日、徳島県生まれの50歳。池田2年春から主力として活躍し、2年夏から3季連続甲子園出場。早大でも主将を務めた。社会人野球の日本生命では都市対抗、日本選手権優勝も経験してマネジャー、コーチを歴任。現在は日本生命保険相互会社浦添営業部の営業部長を務める。

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