王氏 弔辞全文「存在の大きさに改めて愕然と…」

[ 2013年12月3日 05:30 ]

お別れのことばを述べる王氏

川上哲治氏お別れの会

(12月2日 東京都内ホテル)
 読売巨人軍OBを代表してお別れのことばを申し上げます。

 川上哲治さんのご逝去の報に接し、巨人軍はじめ野球関係者、現役選手、OB、そして長年にわたりプロ野球を支えて下さった多くのファンの皆さんが、どれ程大きな悲しみを感じたことでしょう。日本だけでなく世界中の野球ファン、アメリカメジャーリーグの皆さんにも大きな衝撃が走ったことと思います。プロ野球人としての心構えを教えて頂いた一人として、今この場に立ち、ただただ残念の一語であります。三年前の夏、蓼科にてお会いし、色々とお話しをさせて頂いたのが最後となってしまいました。

 川上さんは昭和十三年から四十九年迄(まで)、選手、コーチ、監督として常に日本プロ野球界の先頭に立って戦ってこられました。終戦の翌年から始まったプロ野球は、どれだけ多くの国民に明るい話題を与え、選手たちのプレーにファンは酔いしれたことでしょうか。国技とも言われる野球熱はここから生まれたと言えるでしょう。赤バットの川上、青バットの大下と両者が競い合い野球人気を盛り上げスーパースターとなられました。

 昭和三十一年には、日本プロ野球で初めての二千本安打を達成、五度の首位打者を獲得し、球が止まって見えたという名言は伝説となり、今もって語り継がれております。打撃の神様と讃(たた)えられたバッティングを追求する姿は、現在でも後輩達に進むべき道を示しているといえます。

 川上さんは昭和三十三年に引退されましたが、そのオフに私が入団しました。遠征に出かける巨人軍を見送りに東京駅に行き、川上さんと長嶋さんにごあいさつさせて頂きました。その時の光景は今でも胸の中に強く焼きついております。

 昭和三十六年から監督としてチームを率いましたが、何と言ってもその年の南海ホークスとの日本シリーズの時に、土砂降りの雨の中、多摩川グランドの芝生の上から打撃練習をしたことが強烈な印象として残っております。執念が実り日本一になりましたが、誰もが川上さんの指導者としての勝利への思いの強さを感じさせられました。その後も断固たる決意を持ってチームを牽引(けんいん)していただきました。チームプレーの徹底、それ迄の野球と違って守備に力を入れチームプレーを叩き込まれました。練習につぐ練習により、守備に対する意識が高まり、何度となく相手の攻撃を食い止め、チームを勝利に導くことが出来、チームプレーの大切さを知りました。

 昭和四十六年私がスランプに陥った時、大阪の宿舎で俺について来いと言われました。タクシーに乗り着いた所が京都でした。“川上”という料理屋さんで食事をし、次に行ったお店がかの有名な“一力”でした。川上さんのイメージと合わない思いがしましたが、常連のような態度で大変な顔の扱いでした。文句を言われることもなく、今日は肩の力を抜け、頭をカラッポにしてといわれてやっと楽になりました。その後、スランプから脱出しましたが、川上さんとの距離がグッと近づいた忘れえぬ貴重な夜になりました。

 監督として十四年間指揮をとり、十一回日本シリーズに勝利したこと、特に四十年から四十八年迄の九連覇は川上監督でなければ、なし得なかったことと言い切れます。プロ野球界に燦然(さんぜん)と輝く川上さんの勝利に対する執念の結晶といえます。我々V9戦士も胸を張って生きてくることが出来ました。

 川上さんが亡くなられて、その存在の大きさに改めて愕然(がくぜん)とさせられております。巨人軍だけでなく野球界に残された大きな影響力は、これからも生き続けていきます。プロ野球界はもとより、野球ファンの間でながく語り継がれることでしょう。

 プロ野球界は力強く前進してまいります。どうぞ見守っていてください。
 川上さんありがとうございました。
 ご冥福をお祈りいたします。ゆっくりお眠りください。

平成二十五年十二月二日
 巨人軍OB会長 王貞治
 (原文のまま)

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