2軍から4番、優勝、代打も…「何人分もの経験」

[ 2013年9月8日 06:00 ]

笑顔で引退を表明する桧山

桧山引退会見

 【桧山一問一答】
 ―引退のきっかけは
 「開幕から代打で出させて頂いて、ヒットが出なかったというのも今から思えば、1つの要因かもしれない」

 ―家族にはどのように伝えられた?
 「普通の会話的な感じで“そうなの”という感じ。あらかじめ覚悟はしていたみたいで、現役生活が終わるというだけで、野球人生という意味ではこれからでしょ、みたいな感じで言われた。ちびちゃん(子どもたち)は朝(引退することを)言ったらあっけらかんとしてたけどね」

 ―一番の思い出は
 「この場で短く言えと言われれば、なかなか言葉は出てこないですね。8人の監督のもとプレーさせて頂いていたので、本当にいろんな勉強をさせて頂いていますし、楽しいこともあれば、苦しかったこともあります」

 ―ここ最近は代打の切り札として活躍。桧山コールで球場が盛り上がった。
 「あのコールがあって、ネクストサークルで自分自身も“よし、やってやるぞ”という気持ちにもなった。それが自然と自分が打席に向かうルーティンみたいなものにもなっていたし、あの歓声は誰にも味わえない。僕自身、本当に幸せ者だなと思います」

 ―誇れる記録があれば。
 「まだ若い、プロ入って1、2年目の頃にジュニアオールスターに選出して頂いて、初めて両親を福岡ドームに招待して、両親の前でホームランを打ってMVPを頂いた。試合が終わって両親の顔を見た時にプロ野球に入って良かったと思ったし、そこで親孝行できたかなっていうのもある。もう1つは義理のお父さんなんですけれども、2004年の8月28日。お父さんが亡くなられたという報告をもらって、そこで自分の中では何とかホームランを打ちたいという気持ちで試合に挑んだんです。そこ(翌29日の広島戦)で2本のホームランを打つことができて、ましてヒーローインタビュー、お立ち台に立つことができて、そこでお父さんの名前は出さなかったんですが、誰かに力を頂いているって。そういうことが言えたというのが…一番です」

 ―涙はなかったが
「親のことを触れるとちょっとね。自分自身も22年間で宝物だったなと思いますし、今後ももっといい宝物を自分で作っていきたいと思います。あとは忘れ物(日本一)を取りに行ってないんで。それは(05年の日本シリーズで)自分が発した言葉なので」

 ―残り試合、ここだけはというものは
 「代打で出していただいたときには1本でもいいところで、打てるように」

 ―辛いこと楽しかったことの割合は
 「野球は失敗の連続。失敗したことをどうやって自分の肥やしにしていくか。そう思えば苦しいことの方が多い。成功することを夢見て、望んで、そのために練習している。自分にとってはすごい道のりだったなと。順序よくきたわけじゃないし…。一人1回だけ経験したとかはあるかもしれないけど、自分の場合は一人で何人分もの経験した感じ。控え選手の気持ちも、レギュラーとしての気持ちもわかるし、それこそ、居場所を失った時の立場も経験させてもらって。一人で全部経験できた」

 ―タイガースで過ごした22年は
 「ほんまありがたい」

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2013年9月8日のニュース