稲葉 2000安打達成も“らしく”「複雑な気持ち」

[ 2012年4月29日 06:00 ]

<楽・日>初回2死一、二塁、日本ハム・稲葉は、先制の右前適時打で通算2000安打を達成し一塁ベース上でボードを掲げる

パ・リーグ 日本ハム3-3楽天

(4月28日 Kスタ宮城)
 日本ハム・稲葉篤紀外野手(39)が28日、王手をかけて臨んだ楽天戦で史上39人目の通算2000安打を達成した。初回の第1打席で右前打。ヤクルト1年目の95年6月21日の広島戦(広島)で初打席初本塁打してから18年、39歳8カ月での到達は歴代5位タイの年長記録となった。並外れた努力と卓越した技術でつかんだ金字塔。今季も目下、打撃3冠と衰えを知らないベテランは、栗山英樹監督(51)の胴上げを次なる目標として掲げた。

 2000本目の安打は、稲葉らしい糸を引くような力強い打球だった。試合を一時中断してベンチから飛び出したナインに祝福されると、日に焼けた顔がくしゃくしゃになる。スタンドは敵も味方もなくスタンディングオベーション。史上39人目の快挙を称えた。

 「正直ホッとしています。でも、その後のチャンスで打っていればチームも勝てたかと思うと複雑な気持ち。安打が凄い過去のような感じです」。2度の満塁機で凡退したことを反省したのも稲葉らしかった。

 第1打席で決めた。初回2死一、二塁。3ボールからの4球目。「見るつもりはなかった」と148キロ直球を右前へ。通算1976試合での到達はヤクルト時代の恩師、野村監督の1983試合をしのぐペース。それでも稲葉の歩んできた道は順風満帆ではなかった。

 中京3年夏の愛知大会決勝で当時2年生だったイチロー擁する愛工大名電に敗れて甲子園出場を逃した。主将だった稲葉は「やり尽くした感があって…」と一度は野球をやめる決心をした。法大で主軸を打ち、94年ドラフト3位でヤクルト入りも開幕は2軍スタート。ようやく6月21日、広島戦(広島)で初打席初本塁打。2000本への一歩を踏み出したが、同年日本シリーズは10打数無安打。チームは日本一となったが、1人落ち込んだ。「悔しかったけど人間は失敗してその悔しさを糧に成長する。あの悔しさが今につながっている」。稲葉は挫折を味わうたびに成長してきた。

 04年オフ、メジャー移籍を目指してFA宣言したが交渉はまとまらず断念。頭を下げてヤクルトに戻ることも考えたが、日本ハムから「いつまでも待つ」とオファーを受けて北海道移転2年目の新天地移籍を決断。がむしゃらに練習に取り組んで自分の打撃スタイルを確立。コンスタントに安打を重ね、ヤクルト10年間の972安打を日本ハム移籍8年目で上回り大台に到達した。

 今季の4月1日、西武戦(札幌ドーム)で1点を追う8回2死一、三塁の絶好機で代打を送られた。温厚な稲葉が、悔しさで帰宅後も怒りが収まらなかった。それでも自室のソファに座って落ち着くと恥ずかしさがこみ上げた。「俺はなんて子供なんだって。チャンスで代打を送られるわけがないと、どこかで甘えていた部分があった」。翌日、栗山監督から相手投手との相性を考えた代打起用だった真意を説かれてまた反省。「チームのために何をすべきか」の思いは一層強くなった。

 「僕はチームに拾ってもらった人間だけど優勝もして、ここまで貢献はできたかな」。昨年まで野村、若松、ヒルマン、梨田と4監督の下でプレーし全員をリーグ優勝で胴上げしてきた。2000安打は通過点。視線の先にあるのは3年ぶりのリーグ優勝だ。「(栗山)監督を胴上げして恩返しができたら。あしたからコツコツ頑張っていきたい」。ファン、そして野球に感謝しながらプレーする稲葉はチームになくてはならない存在であり続ける。

 ◆稲葉 篤紀(いなば・あつのり)1972年(昭47)8月3日、愛知県生まれの39歳。中京(現中京大中京)―法大を経て、94年ドラフト3位でヤクルト入団。03年7月1日横浜戦でサイクル安打達成。04年オフにFA権を行使し日本ハム移籍。07年首位打者、同年最多安打。01、06~09年ベストナイン、06~09年ゴールデングラブ賞(いずれも外野)。08年北京五輪、09年WBC日本代表。1メートル85、94キロ。左投げ左打ち。

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2012年4月29日のニュース