諦めない石巻工 日本中に届けた!勇気の5点

[ 2012年3月23日 06:00 ]

<石巻工・神村学園>4回裏、伊勢のタイムリーと失策の間に一挙に逆転のホームを踏んだ(手前から)木原、阿部克、遠藤

センバツ 石巻工5-9神村学園

(3月22日 甲子園)
 日本の、そして東北の底力、絆を見せた。東日本大震災による苦難を乗り越えて21世紀枠で初出場した宮城県の石巻工が、優勝候補の一角である神村学園(鹿児島)と対戦。5―9で敗れたが、4回に打者9人の猛攻で一挙5点を奪う不屈の粘りで甲子園を沸かせた。「復興元年」。被災地が元の姿を取り戻すにはまだ多くの時間を要するが、石巻工の諦めない戦いぶりが「希望の光」となり、一足早い春の訪れを感じさせた。

 生前と変わらない優しい笑みを称えた祖母がいた。5―9の9回2死。奥津は打席に向かう前、ベンチに置いていた祖母さとゑさん(享年73)の遺影にそっと手を当て、祈りを込めた。「おばあちゃん、打たせて」。野球が大好きだった祖母へ鎮魂の思いを込めて初球を打ったが、二飛でゲームセット。笑顔でプレーすると決めていた奥津の目から涙がこぼれ落ちた。

 「勝てなかったことは悔しいけど、気持ちを前面に押し出してプレーできた。おばあちゃんに勝利を見せてあげられなかったけど“必ずまた戻ってくるよ”と言いたい」

 震災を、悲しみを乗り越えたその粘り強さで食らい付いた。0―4の4回に一気の集中打で5点を奪って逆転。さらに2死二塁から、この回9人目の打者となった奥津は左前打。本塁生還を狙った二塁走者がタッチアウトとなったが、驚異の猛攻だった。

 震災から377日。多くの過酷な現実と向き合い、逃げずに闘ってきた。練習中に被災したナインは、浸水するグラウンドから避難し、3日間も校舎で震える夜を数えた。奥津の東松島市の自宅も津波で浸水。東日本大震災から4日目。父・孝文さん(49)と石巻市内の沿岸部に住む祖母の自宅へ向かった。そこで見た光景はがれきと化した家。一気に不安が募った。そして…。道路を挟んだ反対側のベニヤ板の上に、毛布で包まれた女性の遺体を見つけた。さとゑさんだった。当時16歳の少年には重すぎる現実。自分の前方で捜索する父を呼ぶ声が出なかった。遺体に帽子をかぶせると、止めどなく涙があふれ出た。

 「冗談が好きで友達みたいだった」。心に大きな穴が開いた。同時に、思い出した。「甲子園に行ったら応援に行くよ」との祖母の言葉。だから、1カ月間グラウンドでヘドロまみれのがれきの除去作業が続いても、絶対に弱音は吐かなかった。アルプス席から見守った孝文さんも「(震災後)顔つきが変わった」と振り返った。

 石巻市は死者3280人と最悪の人的被害が出た街。震災で野球道具が水没し、残ったバット2本とボール5個から野球を再開し、甲子園出場を果たしたナインは、まさに希望の星だ。甲子園出場が決まってからは、仮設住宅に住む生活が苦しいはずの高齢者までもが資金をカンパしてくれた。松本嘉次監督は「練習する選手を見て勇気づけられたと言ってくれる人が多かった」と感謝した。これからも、復興へ力強く歩む故郷の道しるべとなるべく白球を追い掛ける。

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2012年3月23日のニュース