西本幸雄氏「オレをいらんか?」「マニエルの遺産を道楽息子たちが…」

[ 2011年11月26日 12:08 ]

79(昭54)年、近鉄が初のパ・リーグ優勝を達成し、主砲のマニエル(右)と喜び合う西本監督(同3人目)

 【西本幸雄氏名言集】

 ▼「オレをいらんか?」=1973年11月、阪急監督退任時、近鉄・中島正明編成部長に自ら売り込んだ。中島とは立教大同級で主将とマネジャーの間柄。近鉄・佐伯勇オーナーは「あれ(西本)貸さんか」と阪急・森薫オーナーに申し入れていた。

 ▼「青春は誰にとっても一度しかない。しかも限られた時間しかない。近鉄のユニホームを着たという青春の証として何とか悔いの残らぬように努力させてやりたい」=1973年11月、近鉄監督就任に当たり、得意の青春論を披露。

 ▼「知ってるよ。おまえらがいるから来たんや」=1973年12月、日生球場内の近鉄球団事務所で出くわした梨田昌孝(現日本ハム監督)、羽田耕一(現オリックス営業部)からの直立不動のあいさつに返した言葉。高卒2年目の2人が名将の言葉に感激した。

 ▼「マニエルおじさんの遺産を道楽息子たちが食いつぶし、それでも優勝できた」=1979年、近鉄前期優勝でのインタビュー。

 ▼「わしは一つも悲運や不運だと思ったことはない。勝負の世界で運という言葉を使ってはいかんが、8回も優勝できたのは幸運な、幸せな男だった」=日本シリーズ8度敗退で「悲運の闘将」と呼ばれることに。

 ▼「オヤジ、頼む」=阪急、近鉄監督時代、亡き父親(義彦氏)の写真をいつもポケットに忍ばせていた。ピンチでは何度も遺影に手をやった。和歌山中で野球部入部を許してくれなかった父も星野組を優勝に導いた都市対抗では東京まで来て見守ってくれたという。

 ▼「北海道へ行って、牛や馬と一緒に暮らしてみたいなあ。絵描きや詩人のような生活を送ってみたいなあ」=幼少期からの憧れ。

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2011年11月26日のニュース