日本一に輝くことなく…「悲運の名将」西本幸雄氏逝く

[ 2011年11月26日 06:00 ]

99年に行われた巨人と近鉄のOB戦で川上哲治氏(左)と笑顔で握手する西本氏

 阪急、近鉄など3球団で監督を務め、プロ野球界を代表する指導者だったスポニチ評論家の西本幸雄(にしもと・ゆきお)氏が25日午後8時40分、心不全のため、兵庫県宝塚市内の自宅で死去した。91歳だった。

 通夜、葬儀・告別式は未定。情熱的な指導で弱小球団だった阪急、近鉄をともに初優勝に導き、教え子から多くの指導者を輩出した。大毎時代を含め、パ・リーグ一筋20年の監督生活で通算1384勝。8度のリーグ優勝を果たしながら日本シリーズでは勝てず「悲運の名将」と呼ばれた。

 西本氏は眠るように逝った。兵庫県宝塚市の自宅で付き添っていた長女・由実さん、次女・都さんにみとられ、午後8時40分、息を引き取った。

 死因は心不全だった。昨年2月ごろから体調を崩すようになり、入退院を繰り返した。特に腎機能の低下が顕著で、治療を続けていた。

 「灰色」と呼ばれた阪急、「お荷物」と呼ばれた近鉄という弱小球団を情熱的指導で鍛え上げ、初優勝に導いた。「闘将」は猛練習だけでなく「青春時代をともに燃焼しよう」と常に親身になり選手から「親父」と慕われた。60年代に科学的トレーニングを採り入れるなど先見性もあった。

 81年に近鉄監督を勇退してからは本紙評論家として活躍。61年の1年間を合わせ、スポニチ生活は31年超に及んだ。その論評は野球への愛情や改革精神にあふれ「球界のご意見番」と呼ばれた。80年代には「西本幸雄コミッショナー」の機運が盛り上がったほどだ。

 08年7月8日に最愛の妻・和子さん(享年79歳)を亡くした。当時は「涙とあくびが一緒に出る」と老け込んだ。同郷・和歌山市の出身で、苦楽をともにしてきた妻だった。病魔と闘う妻に「今まで何一つしてやれなかった。罪滅ぼしや償いをしている」と献身的に付き添った。

 「人間は愛に生きている」と家族愛、師弟愛、夫婦愛など「愛」で歩んだ91年の人生だった。監督時代、必ずポケットに遺影を入れて頼っていた父(義彦氏)や「おまえがいないと俺は何もできなかった」と感謝する妻の元へと旅立った。

 ◆西本 幸雄(にしもと ゆきお)1920年(大9)4月25日、和歌山市生まれ。和歌山中(現桐蔭高)から立教大に進み、復員後、社会人・別府星野組で監督兼一塁手として都市対抗優勝。49年新設のプロ球団・毎日に入団。55年引退。60年大毎監督でリーグ優勝。阪急、近鉄といった弱小チームを初優勝に導く。81年勇退。監督通算1384勝(歴代6位)。79年正力賞、88年野球殿堂入り。監督通算20季で8度優勝を果たすが、日本シリーズでは一度も勝てなかった。1メートル71。和子夫人(08年他界)と2女。

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2011年11月26日のニュース