過激発言の裏に球団愛…阪神・久万元オーナー死去

[ 2011年9月14日 06:00 ]

03年9月、リーグVを決め祝勝会で鏡抜きを行う(左から)野崎球団社長、久万オーナー、星野監督

 阪神の元オーナーで、阪神電気鉄道元会長の久万俊二郎(くま・しゅんじろう)氏が9日午後10時10分、老衰のため神戸市東灘区の甲南病院で亡くなっていたことが明らかになった。90歳だった。阪神が13日に公表した。葬儀・告別式は既に近親者で執り行われ、10月に「お別れの会」が開かれる。久万氏は1984年10月に阪神のオーナーに就任し、85年にチームは日本一。球団経営に手腕を発揮すると同時に、歯に衣(きぬ)着せぬ発言でも知られ、在任21年の間、名物オーナーとして存在感を示した。

 「一つの時代が終わったという気持ちになる」と阪神・南信男球団社長(56)が語ったように、「名物オーナー」として久万氏の存在感は群を抜いていた。

 03年2月に肺がんの切除手術を受け、その後、健康を回復。08年に阪神電気鉄道本社相談役を退いてからは自宅で静養していた。再び体調を崩したのは6月下旬。関係者によると、当初は風邪とみられる高熱で、神戸市内の自宅から救急車で同市内の甲南病院に運び込まれ、そのまま入院治療を行っていた。そして今月9日に他界。「しばらくは公表を控えてほしい」との遺族の希望で、この日の発表となった。

 84年10月にオーナーに就任し、最初のシーズンとなった85年にチームは21年ぶりのリーグ優勝、史上初の日本一に輝き、いきなり「天国」を味わった。だが、翌年から長い低迷期に入り、同時に「野球は素人。タイガースより電車が大事」など歯に衣着せぬ言動が時に波紋を呼んだ。87年3月に掛布が酒気帯び運転で現行犯逮捕された際、「ウチの4番は欠陥商品。ミスター・タイガースとは呼べない」と厳しく糾弾。翌88年の現役引退の引き金となったとされる。その88年には、バースが病気を患った息子の治療費で球団と対立。この問題で心労が続いた球団代表がホテルから飛び降り自殺する事態にも発展した。

 一方で、成績不振のたびに監督が代わる「お家騒動」の中で、老舗球団の再建に取り組んだ功績は評価される。98年オフには「外から血を入れるべき」と外部の大物監督の招へいに動き、ヤクルト監督を退任したばかりの野村克也氏を迎え入れた。さらに01年オフには、野村氏の後任に、またも中日監督退任直後の星野仙一氏を招き、03年のリーグ優勝につなげた。負け犬根性が染みついていたチームに活力を与え、03年のリーグ優勝以降は毎年優勝争いができるチームに変貌させた。

 阪神電気鉄道では社長、会長として82年から20年以上経営の中心を担い、高層複合ビル「ハービスOSAKA」の建設計画を進めるなど大阪の繁華街、西梅田地区の開発を推進。阪神なんば線の開業にも尽力した。過激な発言の裏に「タイガースと甲子園球場は阪神の至宝」という愛情が潜んでいたことを誰もが知っていたからこそ、多くの球界関係者がその死を悲しんだ。

 ◆久万 俊二郎(くま・しゅんじろう)1921年(大10)1月6日、兵庫県神戸市生まれ。東京帝国大学(現東大)卒業後、46年に阪神電気鉄道に入社。社長室部長、経理部長などを経て82年に社長となり、84年に阪神の球団オーナーに就任。04年に一場靖弘投手(現ヤクルト)に対するスカウト活動での金銭授与問題の責任を取り、オーナー職を退いた。

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2011年9月14日のニュース