慕われる日大三・小倉監督の素顔 高校時代は補欠 あらぬ噂で1度は解任

[ 2011年8月23日 10:30 ]

 夏の甲子園で日大三(西東京)を10年ぶり2度目の優勝に導いた小倉全由(まさよし)監督(54)。「監督を男にしたい」と選手の誰もが口にして一丸となって優勝に突き進んだ姿は、指揮官と選手の理想的なあり方を全国に示した。25歳の若さで関東一(東東京)の監督に就任。一度は野球を離れた時期もあったが、監督生活通算27年。春夏通算で優勝2度、準優勝2度といまや名将の域に達した小倉監督の指導法、素顔に迫った。

 高校野球で近年、これほどまで選手に慕われた監督がいただろうか。大会期間中、取材に答える選手は口をそろえて「監督を男にしたい」と答えた。現代っ子の心をわしづかみにして2度目の全国頂点に立った小倉監督だが、その監督人生は決して順風ではなかった。

 日大三では副将を務めたが、控えの野手だった。日大時代に母校コーチを手伝い、81年に関東一の監督に招かれた。まだ25歳。前年の80年夏の甲子園では1年生の荒木大輔(ヤクルトチーフコーチ)を擁した早実が準優勝。当時の東東京は人気、実力ともに早実が飛び抜けた存在だった中で「甲子園に出たこともない無名校。若かったですから、ただがむしゃらに練習させてましたね」。私生活も含めて、厳しく律することで選手の成長を求めた。果たして4年後の85年夏に甲子園初出場していきなり8強入り。87年センバツは準優勝に輝くなど、関東一の名を一躍全国に知らしめた。

 ところが順調に見えた監督人生が翌年暗転。4季続けて甲子園出場を逃した89年末、いきなり退任に追い込まれた。「辞表を出しましたけど実際はクビでした。いろいろ校長に吹き込んだ人がいたみたいで」。外様監督ゆえの悲哀を味わった。

 野球から離れ、一教師としての生活が始まったが、甲子園出場時にあれほど喜んでくれた周囲の熱も冷めていた。同僚と出かけたスナックでは小倉監督の顔を知らないママから「関東一の監督ってお金を使い込んで辞めさせられたんだって?」と聞かされた。ショックだった。「世間はそんな目で見てるんだと思いました。何も悪いことをしてないのに針のむしろのような生活でしたね」。二度と野球に関わらないと心に決め、グラウンドにも一切近づかなかった。短髪だった髪を伸ばして、ソフトパーマもかけた。理由は「監督をしたがっていると思われたくなかった」からだった。

 その後、理解ある学校関係者に請われて92年に監督として復帰。そして97年、母校の日大三に招へいされた。60年代から70年代にかけて「春の日大三」として優勝1度、準優勝2度の黄金期を誇った伝統校も、就任前後は短期間での監督交代が続いていた。クビを恐れるあまり、大差で負けていても、送りバントでコールド負けを避けるような采配もあったという。「自分は一度クビになってるし、切られることは怖くない。そもそも0―1も0―10も負けは負け」。失敗を恐れず、攻撃力を前面に出した打ち勝つ野球を掲げてチームを一からつくり直した。そして強力打線で01年に悲願の夏優勝を達成した。

 01年から5年連続で甲子園出場したが、06年夏に斎藤(日本ハム)擁する早実に西東京大会決勝で敗退。「この10年で一番悔しい負けでした。情けないですけど(早実が)早く負けろと思ってました」。その後、3年間甲子園から遠ざかったが、今では趣味となった胡蝶蘭(こちょうらん)の栽培に目覚めたのはそのころだ。家族で千葉県の館山をドライブ中、胡蝶蘭が目に飛び込んできた。「何でか分からないですけど自分が花に近づいていった感じですね」。その場で生産者に育て方を聞いて、寮の監督室で栽培し始めた。1株ずつ鉢に分け、部屋のレース越しに光を当てる。水をやり、草を取る。育てるうちに「それまで気づかなかった選手の表情などが見えるようになった」という。

 小倉監督は決して「最近の若い子は…」という言葉を使わない。「今の子は我慢を教わってないし、しかられ慣れてない。でも我慢の大切さを教えてやれば自分たちの頃より素直にやってくれますよ」。大切にしているのはコミュニケーション。千葉の自宅を離れて単身赴任で寮暮らしを続けているが、廊下で選手と擦れ違えば必ず声をかける。選手が熱を出せば氷枕をつくり、医者にも連れて行く。風呂だって一緒に入り、失敗談も隠さずに話す。自然と選手との絆は出来上がっていく。

 「もちろん理論は大切ですが、高校生は心をつかむこと。それがなければ絶対に育たないです」

 上から押しつけるのではない。選手とともに歩む指導。甲子園できれいな大輪を咲かせたチームこそが、小倉監督の育成法が正しかったことを証明していた。

 ◆小倉 全由(おぐら・まさよし)1957年(昭32)4月10日、千葉県生まれの54歳。日大三時代は副将で背番号13の三塁コーチとして活躍。日大に進んで母校のコーチを4年間務めた。81年に関東一の監督就任。89年に一時退任したが、92年に復帰した。97年4月から日大三の監督を務める。甲子園通算成績は歴代11位の32勝14敗。夏は2度優勝し、春は2度準優勝している。社会科(倫理)教諭。家族は敏子夫人(55)、長女・弓佳さん(28)、次女・理佳さん(26)。

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2011年8月23日のニュース